迎えのバンに乗ったとき、誰が同じツアーの参加者なのか、まだ分からなかった。
バンはホテルまで来てくれた。近くのホテルに泊まる人を順に集めているのだろう。乗り合わせた人たちと、これから一日を一緒に過ごすとは限らない。ひとまず空いた席に座り、荷物を膝に載せた。
集合場所に着いても、すぐには出発しなかった。フアランポーン駅の丸い屋根が見える。朝七時前の道路を、車が横切っていく。駅を撮ってから、また車の並ぶ方へ戻った。

やがて、日本人のツアーはこちらです、と声がかかった。
案内してくれたのは、日本語を話すタイ人のガイドだった。ここでバンからバスに乗り換える。さっきまでばらばらに待っていた人たちが、一つの入口に集まった。
「ここ、空いてますか」
六十代くらいの男性が、座席を指した。
「どうぞ」
男性が腰を下ろし、通路が空く。ガイドが車内を見渡して人数を確かめた。僕も鞄を足元に収めた。
一月下旬。バンコクからアユタヤへ向かう朝だった。

川のそばから歩き始める
最初に訪れたワット・チャイワッタナラームには、八時半を過ぎた頃に着いた。
塔の向こうに、まだ低い太陽があった。光に向かってカメラを構えると、レンガの細部が暗くなり、塔の形だけがはっきりする。少し歩いて角度を変えたら、今度は表面の凹凸が見えた。

川沿いへ出ると、対岸の建物と木が水面の上に並んでいた。こちら側には、レンガを敷いた道が続いている。足元を見ながら歩き、ときどき川へ顔を向けた。

バスで来たので、最初は道路から入ってきた場所として見ていた。けれど、かつてこの寺院へ向かう人にとって、川は大切な出入り口だったという。水辺に立って振り返ると、塔の並びがまた違って見えた。
「写真、撮りましょうか」
日本人のご夫婦に声をかけた。アメリカから来たという、年配の二人だった。
ご主人が携帯を渡してくれた。二人が立つと、画面の上で塔の先が少し切れた。
「もう少し下がりますね」
僕が後ろへ動くと、奥さんがご主人の袖を引いた。
「私たちが動くんじゃないの」
「ああ、そっちか」
二人が笑っているうちに、一枚撮った。
携帯を返し、またそれぞれ歩き出す。ご夫婦は川の方へ、僕は仏像の並ぶ回廊へ向かった。
顔のない仏像の前で
近くで見ると、仏像には肩があり、胸があり、膝の上に手があった。その上にあるはずの頭部がない。
一体だけではなかった。レンガの壁に沿って、同じように頭部を失った仏像が並んでいた。遠くから塔を撮っていたときには、その一体一体の体までは見ていなかった。

アユタヤは一七六七年、ビルマ軍の攻撃によって大きく破壊された。ただ、いま目の前にある欠損を、すべてその一度の出来事に結びつけることはできない。寺院が放置された後にも、略奪や損傷は続いた。
僕が気になったのは、その「後」の時間だった。
戦争で壊れた、と聞けば、遠い日の戦場を思い浮かべる。そこからさらに、残されたものを持ち去ろうとした人がいた。いつ、誰が、どの像に手をかけたのか。目の前の断面だけで分かるわけではない。それでも、膝や指が残る体を見ていると、なくなった顔のことが気になった。
バスで近くに座った男性が、少し先で立ち止まっていた。
「ずっと並んでるんですね」
僕が言うと、男性は壁の先を見た。
「向こうにもありますね」
それきり二人とも黙って、同じ方を見ていた。
回廊の脇には、黒い猫が丸くなっていた。通り過ぎる人の足が近づいても、その場所から動く様子はなかった。
僕たちは猫を避けて歩いた。塔を見上げていた顔を下げると、道幅はそれほど広くない。猫の横を抜けてから、もう一度、壁際の仏像を振り返った。

三つの塔と、旅を始めた年齢
次の場所では、赤い屋根の大きな堂が目に入った。近くに宝くじを並べた売り場があり、鉢の水面には花が咲いていた。
さっきまで見ていたレンガの遺構とは違い、ここには屋根と扉がある。堂の方へ向かう人を横目に、僕も広場を歩いた。その先に、ワット・プラ・シー・サンペットの三基の仏塔が見えてきた。
丸みのある部分から、上へ細く伸びていく。同じ形の塔が三つ並ぶと、一基を見ているつもりでも、すぐ隣の塔へ視線が移る。
ここは王宮に付属した寺院だった。三基の大きな仏塔には、三人の王の遺灰が納められたとされる。王が暮らした場所の近くに、亡くなった王を祀る場所がある。ガイドの説明を聞きながら、その距離を考えた。
塔の全体を撮ろうとして少し離れると、手前には崩れた壁や柱が入った。近づいた写真では塔が大きく、離れた写真では、その周りの失われた建物の広さが分かる。

木陰でカメラを下ろしたとき、あの男性とまた一緒になった。
「タイだけですか、今回は」
「いえ、東南アジアをいくつか。一人で回ってるんです」
話しているうちに、一人旅を始めたのは五十代からだと聞いた。
「前から、ずっと旅をされていたのかと思いました」
「そんなに慣れて見えます?」
「ええ」
「朝は、ちゃんとこのバスでいいのか気にしてましたよ」
僕も集合場所で待っていた時間を思い出して笑った。ホテルから乗ったバンも、そのままアユタヤへ行くのかと思えば、途中で役目が終わった。席に落ち着くまで、僕も周りの人の動きを見ていた。
一人旅の話をもう少し聞きたかったが、ガイドの呼ぶ声がした。
「続き、バスで」
男性はそう言って歩き出した。僕も水をしまい、その後ろについていった。
象を見ているあいだ
象のいる施設では、籠に入った餌が並んでいた。屋根の下に象がいて、柵の近くまで行くと、鼻や牙、皮膚の細かな皺が見えた。
赤い布や飾りを着けた象もいた。僕は写真を撮り、携帯を下ろして、またその姿を見た。
少し、不自由そうに思えた。
大きな体と、その周りの柵を見ていたからかもしれない。自分が同じ場所にいたら、と考えかけた。けれど、僕の体は象の体ではない。この象がどう暮らし、何を好み、いま何を感じているのかを、僕は知らなかった。
幸せかどうかを、僕が決められるのだろうか。
だから何も気にしなくていい、ということにもならない。最初に感じた窮屈さは残ったままだった。ただ、短い見学のあいだに見えたものだけで、この象の暮らし全部を分かったことにはしたくなかった。
柵の向こうに鼻が見えた。写真の画面に収まる部分より、体はずっと大きかった。
次へ向かう時間になり、僕もその場を離れた。

木の根の顔から、周りの寺へ
ワット・マハータートの仏頭は、木の根の低いところにあった。
写真で見たことのある顔だった。けれど実物の前では、顔より先に、上から下へ絡み合う根の量が目に入った。顔の輪郭に沿う根もあれば、横へ伸びていく根もある。その間に、石の頬と目と口が見える。
しゃがんでカメラを向けた。顔だけを大きく撮り、少し引いて木を入れた。横へ動くと、仏頭の向こうにレンガの塔が重なった。

ご夫婦も近くに来ていた。
「撮れました?」
奥さんが聞いた。
「撮ったんですけど、後ろの塔も入れたくなって」
「それで、まだここにいるのね」
言われてみると、似た写真を何枚も撮っていた。僕は画面を見せ、奥さんは少し顔を近づけた。ご主人はその隣で、木の上の方を見ていた。
この仏頭が、どういう経緯でここに残されたのかは、はっきり分かっていない。根に包まれた姿から、もっともらしい話はいくつも考えられる。でも、見えているものと、そこから想像したことは同じではない。
木から離れて、寺院の中を歩いた。
塔の足元にはレンガが幾重にも積まれている。壁の切れ目を通ると、向こうにも仏塔が見えた。木陰の仏像には頭部がなく、その台座の周りにも落ち葉があった。

ここは仏舎利を祀り、高位の僧が拠点とした、王朝の重要な寺院だった。王室の儀礼とも深く関わっていたという。王のための場所、僧のための場所、人が祈る場所。その区切りを簡単に引けるわけではなかった。
僕がこの日に気になっていた、人と宗教と権力の関係は、一本の説明で片づくものではなさそうだった。誰が建て、誰が使い、誰が手を加えたのか。塔を見ているうちに、建物だけでなく、そこへ通った人のことを考えていた。
ひと回りして、もう一度あの木の近くへ戻った。顔を見つけるのは、さっきより早かった。その奥にある塔にも、今度は自然に目が向いた。

寝仏の足元まで
正午を過ぎ、ワット・ローカヤスターへ向かった。
大きな仏像が、空の下に横たわっていた。頭を支える手があり、体の先に足が重なる。正面から全体を見て、それから足の方へ歩いた。

近づくにつれて、足の裏が大きくなる。横たわる姿を一枚に収めようとすると遠くへ下がることになるし、足の近くに立つと顔がずっと向こうへ離れてしまう。

「足の方まで行ったんですか」
戻る途中、男性に聞かれた。
「ええ。近くで見ると、足だけでも大きくて」
男性は僕の来た方へ顔を向けた。
「まだ時間、ありますよね」
ガイドの方を見てから、ゆっくり歩いていった。
僕はもう一枚、頭側から写真を撮った。手前にはレンガの基壇があり、その先に仏像の体が続いていた。
撮り終えて携帯をしまうと、ご夫婦が少し先にいた。朝は、どのバスへ乗るのか分からず周りを見ていた。今は、二人の後ろ姿が分かる。
歩いて追いつくと、奥さんが振り返った。
「みんな、撮れました?」
「あと一人、足の方に」
三人でそちらを見た。男性が携帯を下ろし、こちらへ歩いてきた。
帰りのバス
バスに戻って腰を下ろすと、冷房の風が首に当たった。膝の上に置いた鞄から水を出す。歩いているあいだは気にならなかったのに、座ると足の裏がじんとした。
窓の外で、道沿いの建物が後ろへ流れ始めた。さっきまで近くで聞こえていた話し声も、しばらくすると途切れた。前の席では、ご夫婦が一台の携帯をのぞき込んでいる。奥さんが画面を指で送り、ご主人が何か言う。その声までは聞こえなかった。
僕も今日の写真を開いた。三つの塔、柵の向こうの象、木の根の仏頭。仏像を続けて撮った中に、回廊の脇で丸くなっていた黒い猫がいた。あのときはずいぶん熱心に壁際の像を見ていたのに、猫の写真までちゃんと撮っている。
隣から、男性が画面をちらりと見た。
「それ、いましたね」
「全然、動かなかったですね」
男性は小さく笑って、背もたれに体を預けた。僕も携帯を伏せた。少し目を閉じるつもりが、バスが減速するまで、そのままになった。
目を開けると、窓の向こうに車が並んでいた。建物の看板を目で追っているうちに、バンコクへ戻ってきたことが分かった。前の席で、ご主人が伸びをした。ガイドの日本語が聞こえ、みんなが足元の荷物を確かめ始めた。
降りる支度をしながら、男性にこの先も旅が続くんですよね、と聞いた。
「ええ。まだ、もう少し」
朝、空いている席を尋ねたときと同じような、気負いのない返事だった。
通路でご夫婦と顔を合わせ、「ありがとうございました」と言った。奥さんが「こちらこそ」と返す。写真を撮ったお礼なのか、一緒に歩いたお礼なのか、どちらともつかない挨拶になった。
バスの段を降りると、外の熱気が戻ってきた。後ろから降りてくる男性を待って、もう一度だけ手を上げた。
「お気をつけて」
「そちらも」
鞄を肩に掛け直し、車の音がする方へ歩き出した。
この旅で利用したツアーと宿
僕が予約したのは日本語ガイド・昼食付きのプランで、予約料金は€42.96(約7,887円/約1,609バーツ相当)だった。
今回利用したツアー(広告)
バンコクのほかのツアー(広告)
宿泊したホテル
| 宿名 | 泊数 | 予約総額 |
|---|---|---|
| Sukhumvit Suites Hotel(バンコク) | 2泊 | 6,481.28 THB/約31,769円 |
スクンビット地区のホテル。デラックス・ダブルルーム、朝食なしの予約。ツアー当日の朝はホテルまで迎えのバンが来てくれた。
円換算は2026年1月30日のECB参考為替レート(1ユーロ=183.59円、37.455バーツ/1バーツ≒4.9016円)による目安。料金は今回の予約資料に記載された金額で、カードの最終決済額ではない。


コメント