冬のドゥブロヴニクは閑散としていた。旧市街を歩くと閉まっているレストランもある。それでも人が少ないぶん街が開けて見えた。
アドリア海の宝石を楽しむなら冬もいいのかもしれない。路地を歩き、城壁から街を眺めるうちに僕はそう感じた。
今回歩いた街と訪れた場所
旧市街: 冬の通りから見える街の重なり
空港からタクシーで旧市街へ向かった。海沿いの道路から赤い屋根の街が見え、その後はピレ門をくぐって歩く。門の向こうには広い通りがある。そこから路地へ入ると石の壁が両側に迫り、道は階段になって上へ続いていた。
ドゥブロヴニクはクロアチア南部のダルマチア地方にあるアドリア海沿いの街だ。山と海の間に家が広がり、その海側に城壁で囲まれた旧市街がある。地図では小さくまとまって見えるが歩くと高低差がある。大通りから一本入るだけで視界が変わる。人の少なかった冬は、その路地の奥まで見通せた。
今回の宿も旧市街の中にある。宿の周辺からイエズス会の階段へ進むと、上には聖イグナチオ教会が建っていた。外から見た石造りの正面と違い、内部には祭壇を囲む柱や天井の装飾が重なっている。階段の上からは細い通りの先を歩く人まで見えた。
広いストラドゥン通りに戻ると両側の建物の高さや窓の並びがそろっている。今の姿は1667年の大地震後の復興で整えられたものだという。通りに沿って店が並ぶ形にも、街を再び動かしていこうとした当時の考えが残っている。僕が歩いていた整った街並みには再建の歴史も重なっていた。
旧市街は1979年に世界遺産へ登録された。その後のクロアチア独立戦争では1991年にユーゴスラヴィア人民軍による砲撃で大きな被害を受け、修復が進められた。今見える建物や屋根をすべて昔のまま残ったものとして眺めることはできない。地震や戦災を経て街がつながってきたことを知ると、人が歩き、店の明かりがつく通りにも目が向く。
夕食の後に通った大通りには街灯の光が伸びていた。昼も夜も同じ道を歩ける宿に泊まったことで、山から見た屋根の集まりと路地の中の景色を行き来できた。閉まった店もあったが人が少ないぶん街が開けて見えたという印象は、その両方に残っている。






ラグーサ共和国: 港から考える小さな国の生き方
路地を抜けて旧総督邸の前を通り、旧港へ出た。建物の間にあった空が大きく広がる。港のそばでは大聖堂のドームが夕方の光に浮かび、海に沿って歩くと聖ヨハネ要塞の壁が水際まで続いていた。
この港を中心に栄えたのがラグーサ共和国だ。ラグーサはドゥブロヴニクの歴史的な呼び名で、別の場所にあった国ではない。転機となった1358年にはヴェネツィアの支配を離れ、ハンガリー王の宗主権を認めながら自治を広げた。のちにはオスマン帝国へ貢納しつつ交易上の権利を確保し、地中海とバルカン半島の内陸を結ぶ商業で力を持った。
内陸からは羊毛や皮革、金属などが届き、海の側からは塩や織物などが運ばれた。街の背後に山があり、目の前に港があることは景色の特徴であると同時に商売の条件でもあったのだ。僕が歩いた港から路地へ続く短い距離の先に、内陸と海を結ぶ大きなつながりがあった。
大国に囲まれた共和国は外交や中立政策を使って自治を保った。厚い城壁を見ると軍事力に目が向くが、港の歴史を知ると交渉や取引の積み重ねにも目が向く。相手をすべて遠ざけてしまえば商業は成り立たない。城壁の中で暮らしを守りながら外との関係を続ける。その両方が必要な国だった。
もう一つ港と結びつくのが検疫だ。1377年には疫病の流行地から来る人を一定期間隔離する制度が定められた。当初の待機期間は30日で、後に40日へ延びたという。船が人や品物を運ぶ以上、病気も街に入ってくる。交易を続けるために人の健康をどう守るかまで制度にしたことが、この港の見え方を変える。
共和国はナポレオン戦争の時代にフランス軍の進駐を受け、1808年に廃止された。現在の旧市街に国の機能がそっくり残っているわけではないが、港と城壁と総督邸は近い距離に並んでいる。国として何を大切にしていたかを考えながら歩ける広さだった。


城壁: 海と陸で厚さを変えた守り
翌朝は旧市街の城壁に上がった。海側には石の道と見張りの小塔が続き、内側には家の屋根がすぐ近くまで迫っている。路地の下から見上げていた壁が今度は足元にある。海へ視線を向けてから振り返ると、教会の塔や中庭が屋根の間に出ていた。
城壁の長さは約1,940メートル。現在の守りは長い時間をかけて増強されたもので、塔や要塞も一度に造られたわけではない。高さは場所によって約25メートルに達する。陸側の主壁は厚さ4〜6メートル、海側は1.5〜3メートルとされる。海と陸で同じ壁にしなかったことにも、どこから攻撃を受けるかを考えた造りが表れている。
北側のミンチェタ要塞は陸からの攻撃に備える場所だった。山側へ回ると海を背にする形になり、街を囲む壁の向きが変わる。屋根を見下ろすために上がった場所が、守る側から外を見る場所でもあったことが分かる。
港側の聖ヨハネ要塞にはもう一つ具体的な役割があった。夜は港の入口に鎖を渡し、望まない船が入り込むのを防いだという。前の夕方には水際に続く大きな壁に見えたが、港の入口を開閉する仕組みの一部だったのだ。船を迎える時間と街を閉じる時間があったことまで想像すると、要塞と港を一緒に見る理由ができる。
城壁のすぐ下には家や階段があり、人が歩いていた。大きな防御施設の内側に日々使う細い道が詰まっている。冬の人の少ない街では、その距離の近さがよく見えた。僕には城壁そのものの大きさと、守られていた街の細かさが一緒に残った。



旧総督邸: 一か月で交代する総督の住まい
城壁を下りた後は旧総督邸の内側へ入った。前の夕方に外から見たアーチの奥に中庭があり、上の階にも柱が並んでいる。空に向かって開いた中庭からは建物の階層が見渡せた。
ここはラグーサ共和国の政府が置かれた場所で、総督の公邸でもあった。レクトルと呼ばれた総督の任期は一か月。何十年も同じ人物が住み続ける宮殿とは使われ方が違う。国を代表する役職であっても、短い任期で人が入れ替わっていた。
共和国の政治は貴族の評議会を中心に動いていた。総督一人が国のすべてを決めていたわけではない。短い任期は個人へ権力を集めすぎない仕組みとして理解できる。一方で政治に参加する層は限られていた。「共和国」という名前から今の民主主義をそのまま思い浮かべると、この国の姿を見誤ってしまう。
建物の中には執務の場だけでなく裁判所や牢獄、武器庫もあった。今見える整った中庭の周囲で、行政や司法や暮らしに関わる仕事が行われていたのだ。僕が歩いた建物は一人の生活を飾る宮殿である以上に、国を運営する仕事の集まる場所だった。
現在の建物は15世紀前半の造営を基礎にしているが、火薬の爆発や1667年の大地震による損傷を受けて何度も修復された。ゴシックやルネサンスの形にバロックの改修が重なっている。中庭のアーチを眺めるときも、最初から完成した一つの様式というより、直しながら使い続けた建物として見えてくる。

フランシスコ会修道院: 回廊の奥につながる薬の歴史
その後はフランシスコ会修道院へ向かった。回廊には細い柱が並び、床にアーチ越しの光が差していた。通りでは高い壁の間を歩いていたが、ここでは中庭に向かって視界が開く。大きな建物の内側に入ったときの光の違いが残っている。
フランシスコ会の修道士たちはもともとピレ地区の城壁の外に暮らしていた。14世紀初めには戦争や襲撃の危険を受けて内側への移転が進んだ。街を囲う城壁は修道院の置き場所にも関係していた。城壁を歩いてから来ると、回廊のある建物も街の守りとつながって見える。
修道院の沿革には創建の年代をめぐる説明の違いもある。観光案内でよく見かける1317年だけで建設のすべてを区切ることはできず、修道院自身の記録ではそれ以前の工事も紹介されている。長い時間をかけて教会や回廊が造られ、後には学校や病院などの機能も加わった。
ここで気になるのが薬局の歴史だ。創業は修道院の創建年とされる1317年に結びつけられているが、初期の史料の多くは1667年の地震後の火災で失われたという。現在も薬局が営業を続けており、古い薬局の展示とは場所を分けている。古い年号だけでなく、使い方や場所を変えながら仕事が続いている点にこの修道院らしさがある。
薬の処方の中には旅人や船長、国外で治療を受けた人を通して伝わったものもあった。交易の港で集まるのは売り買いする品物だけではなく、薬についての知識も含まれていたのだ。港で考えた外とのつながりが、城壁の内側の修道院まで続いてくる。
僕が歩いた回廊の柱や床の光は、祈りの場に加えて人を育て、病気を治し、知識を受け継いできた場所の一部だった。その背景を重ねると、静かに見える中庭の周囲にも街を支える仕事があったことが分かる。

スルジ山: タクシーで上がり歩いて戻る
午後はタクシーでスルジ山へ上がった。旧市街の屋根が海に突き出すように集まり、その周りに新しい街が広がっている。城壁から見えたロクルム島も旧市街と一緒に視界へ入った。
空には雲が広がっていた。眼下の海と街を眺めてから帰りは歩いて下りた。ボサンカを経て、舗装された道や石の道を進む。途中でも木々の間や道の先に海が見えた。
山の上では一まとまりに見えた街が近づくにつれて建物や道に分かれていく。旧市街へ戻る頃にはまた高い壁に挟まれた階段を下りていた。城壁の上、山の上、路地の中と同じ街を見る高さが変わった。




スルジ山: 最後の朝はロープウェーで往復する
最後の朝も旧市街を歩き、朝食の後はロープウェー乗り場へ向かった。二度目のスルジ山は行きも帰りもロープウェーを使う。前日は雲が広がっていたが、この朝は海の向こうまで青い空が続いていた。
山から見える旧市街の向こうにロクルム島が横たわっている。世界遺産の正式な登録対象は「ドゥブロヴニク旧市街」で、現在の登録資産には旧市街の区域とロクルム島が含まれる。今回は島を山や城壁から眺めた。
門と港、城壁、総督邸、修道院を歩いてから全体を見ると、それぞれの場所が近い距離でつながっていることが分かる。山から眺める屋根のまとまりの中に、さっきまで歩いていた階段や食事をした通りがある。街を見渡した後にまたその中へ戻れる旅だった。



食事: 路地の夕食と広場の朝食
閉まっているレストランもあった冬の旧市街で、開いている店に入りながら食事をした。歩いてきた路地の奥や広場のそばに食事の場所がある。今回食べたものもここにまとめておく。
Marco Polo: 最初の夜は路地の奥へ
最初の夕食はMarco Poloへ入った。細い路地の入口に店名が出ている。テーブルにはタコのカルパッチョと生ハムのブルスケッタが並んだ。続いてマカロニ料理のシュポルキ・マカルリ。魚介と肉の料理を同じ食卓で食べた。




KameniceとMlinar: 広場でとった朝と昼
翌朝はグンドゥリッチ広場のMlinarでサンドイッチとピザを買い、Buffet Kameniceでは飲物をとった。昼には同じKameniceで牡蠣と黒いリゾットを食べる。青い椅子の並ぶ店の前には広場が開けていて、その向こうに窓や階段が見えた。


Barba: 板に盛られたイカのフライ
山から歩いて戻った日の夕方はBarbaへ入った。路地に面した小さな店でイカのフライと牡蠣を食べた。フライはポテトと一緒に板に盛られ、牡蠣にもレモンが添えられていた。食事の後に通ったグンドゥリッチ広場には店の明かりと屋外のテーブルがあった。



Arsenal: 最後の朝のエッグベネディクト
最後の朝はGradska Kavana Arsenalで朝食をとった。皿にはエッグベネディクト。店の外には大きなアーチ形の窓と青い椅子が並んでいた。この後にロープウェーで二度目のスルジ山へ向かった。


おすすめのレストラン
| 店名 | 特徴 | お会計総額 | 参考円 |
|---|---|---|---|
| Marco Polo | 路地の奥にある店。タコのカルパッチョや生ハムのブルスケッタに加え、肉を使うマカロニ料理も選べる。 | €127 | 約20,760円 |
| Buffet Kamenice | グンドゥリッチ広場に面した青い椅子の店。殻付きの牡蠣と黒いリゾットを食べられる。 | 昼食 €54 朝の飲物 €5 | 約8,830円 約820円 |
| Barba | 路地に面した小さな魚介の店。板に盛ったイカのフライとポテト、レモンを添えた牡蠣が並ぶ。 | €41 | 約6,700円 |
| Gradska Kavana Arsenal | 大きなアーチ窓が港側に並ぶカフェ。朝食ではエッグベネディクトを食べた。 | €27.50 | 約4,490円 |
| Mlinar | 広場に面したベーカリー。サンドイッチやピザを買って朝食にできる。 | €9.10 | 約1,490円 |
今回泊まった宿
| 宿名 | 泊数 | 予約時総額 | 参考円 |
|---|---|---|---|
| YOUTH STAY- Buža Apartment | 2泊 | €117 | 約19,120円 |
旧市街の中にあり、街歩きの途中で宿へ戻りやすい立地が便利だった。
参考円は2024年3月28日の1ユーロ=163.45円で換算した。出典はフランス銀行の公表レート。金額は今回の旅行当時のもの。
人が少ないぶん街が開けて見えた冬のドゥブロヴニク。城壁や山から全体を眺め、下りてから路地や階段を歩いた。交易や政治や再建の歴史を知ると、それぞれの場所のつながりも見えてくる。アドリア海の宝石を楽しむなら冬もいいのかもしれない。僕にはそう思える旅だった。
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