学生時代に訪ねたサグラダ・ファミリアが、十数年後には違う姿で目の前にあった。建設が進んだ聖堂を見上げてその変化に驚くと同時に、あの旅から過ぎた時間の長さを実感した。
今回が3回目のバルセロナだった。以前から知る場所を訪ね直す一方で、まだ行ったことのない場所の多さにも驚かされた。
バルセロナ: 地中海に面したカタルーニャの中心都市
バルセロナはスペイン北東部の地中海沿岸にあるカタルーニャ州の州都だ。海とコルセローラ山地の間に市街地が広がり、北東側をベソス川、南西側をリョブレガット川に挟まれた平野に位置する。市域の面積は約101.35平方キロメートル。人口は市の住民登録統計で約173万人だ(2026年1月1日現在)。
都市の起点は紀元前1世紀末にローマ人が築いた植民市バルキノにさかのぼる。中世にはバルセロナ伯領やアラゴン連合王国のもとで発展し、地中海交易の重要な拠点になった。ゴシック地区の教会や旧市街の街路には、その時代からの都市の重なりがある。
19世紀には工業化で人口が増え、城壁の中に収まっていた街を外へ広げる必要が生まれた。1854年に城壁の撤去が始まり、1859年にはイルデフォンソ・セルダの拡張計画が承認される。碁盤目の街区で知られるアシャンプラは、この計画から発展した新市街だ。
アシャンプラはカタルーニャ語で「拡張」を意味する。特徴的なのは交差点に向かって建物の角を斜めに切った街区で、日照や風通し、移動のしやすさを考えた都市計画だった。旧市街の細い路地とグラシア通り周辺の広い交差点は、単に道幅が違うだけでなく、街が広がった時代の違いを表している。
この歴史を知ってから歩いた道を振り返ると、旧市街で空が細く見えたことと、新市街で通りの向こうまで建物を見渡せたことがつながった。道の広さや交差点の形は街歩きの背景だと思っていたが、そこにも人が増え、暮らす場所を広げようとした時代の事情が残っている。建物だけを見ていたら気づかなかった街の変化だ。
3回目でも知らない場所が多いと感じたのは、まだ見ていない名所があるからだけではなかった。通ったことのある道にも、その形になった理由がある。次に同じ交差点に立つときは建物の正面だけでなく、通りの幅や角の切り方にも目が向きそうだ。バルセロナは訪ねた場所が増えるほど、すでに歩いた場所まで見直したくなる街だと思う。
旧市街: 市場から大聖堂へ路地を歩く
空港から市内へ入り、スペイン広場を経て旧市街へ向かった。ランブラス通り沿いのボケリア市場をのぞき、建物に挟まれた細い道へ入る。見上げると窓やバルコニーが重なり、通りの上に細く空が見えた。
バルセロナ大聖堂の前には人が集まっていた。正面の尖塔を見上げた後はサンタ・カテリーナ市場へ向かった。


サンタ・カテリーナ市場: 修道院の跡に重なる色鮮やかな屋根
サンタ・カテリーナ市場では波打つ屋根の下に青果や魚の売り場が並んでいた。大聖堂を見た後に歩いてくると、食べ物を売る場所にもこんなに目を引く屋根があることが面白い。色のある装飾を見るとガウディを連想しがちだが、この改修を手がけたのはエンリック・ミラージェスとベネデッタ・タグリアブエだった。
市場が開いたのは1848年。バルセロナで初めての屋根付き市場として造られ、街の人たちに食料を供給する役割を担った。その敷地には以前、同じサンタ・カテリーナの名を持つ修道院があった。修道院が失われた後の土地に市場が造られ、改修に伴う発掘では地下に残る遺構も調べられている。
現在の姿になったのは2005年の改修だ。新しく造られた屋根に対して、正面のアーケードや側壁には以前の市場の部分が受け継がれている。ひとつの建物の中に修道院の跡、19世紀の市場、現代の建築が重なっていることになる。
屋根の色にも市場らしい理由がある。市場の公式説明によると、モザイクには約32万5千枚の陶片を使い、かつて広場に並んだ果物や野菜の売り場の色を表しているという。内側は木で仕上げられ、鮮やかな外の屋根とは違った温かい色合いになる。人を呼ぶための目立つ形と、その下で買い物をする空間とが考え分けられていた。
この背景を知ると、新しい屋根に目を奪われた市場が別の場所にも見えてくる。昔の建物をそっくり残す方法だけでなく、一部を受け継ぎながら今の買い物の場所として使い続ける方法もある。食べ物を売る役割が続いているからこそ、古い土地が街の日常から切り離されずにいるのだと思う。
僕が歩いたのは今の売り場だが、その足元には修道院があり、頭上には果物や野菜を表した屋根がある。歴史を別室にしまうのではなく、買い物をする人と同じ場所に重ねているところがいい。市場の屋根を見たときには知らなかったが、そこには街の古さと新しさが一緒に重なっていた。その後はカタルーニャ音楽堂へ向かった。

カタルーニャ音楽堂: 客席の上に広がるステンドグラス
カタルーニャ音楽堂は細い通りに面して建っていた。外壁の彫刻や色のある装飾を見てから中へ入ると、客席の上に大きなステンドグラスが広がっていた。中央が客席へ向かって膨らみ、周囲には花をかたどった装飾が並んでいる。
この建物は1891年に結成された合唱団オルフェオ・カタラの本拠地として造られた。設計はガウディと同時代の建築家リュイス・ドメネク・イ・モンタネール。1905年に着工し、わずか2年10か月ほどで完成して1908年に開館した。サグラダ・ファミリアと同じ時代の建物でも、建設にかかった時間は大きく違う。
オルフェオ・カタラは合唱だけでなくカタルーニャの文化を支える存在でもあった。19世紀にはカタルーニャ語や文学を見直す文化運動「ラナシェンサ」が起こり、音楽堂もその流れを受けた場所になった。街を飾る立派なホールというだけでなく、自分たちの言葉で歌い、文化を受け継ぐための拠点だったのだ。
客席を明るくする仕組みにも工夫がある。狭い街区では周囲の建物に光を遮られやすい。そこで鉄の骨組みで建物を支え、壁に大きなガラス面を設け、中央の天窓からも自然光を取り込んだ。目を引くステンドグラスは飾りであると同時に、この場所にホールを成立させるための採光装置でもあった。
さらに1960年には、フランコ独裁政権下で演奏を禁じられた「カタルーニャの旗の歌」を客席の人々が歌い、逮捕者が出た事件も起きている。音楽堂は美しい音楽が演奏される場所であるとともに、何を歌えるかが政治とぶつかる場所にもなった。
この来歴を知ると、並んだ客席の見え方も変わってくる。今回僕が見たのは建物の見学で、ここで演奏を聴いたわけではない。それでも合唱団の拠点として生まれ、客席から歌が上がった歴史を重ねると、ホールの主役は舞台だけではなかったのだと思う。
天窓や壁の装飾を見ていた時間に、歌い手や聴き手のために光と空間をつくる仕事の細かさが重なる。美しい建物を残すことは、その中で何をしてきたかを残すことでもある。音楽堂の歴史からはそんなことを考えた。



サグラダ・ファミリア: 学生時代から変わった聖堂を見上げる
翌朝はサグラダ・ファミリアへ向かった。学生時代に見た姿との違いが、今回の旅で強く印象に残った場所だ。外にはまだクレーンや足場があり、工事の途中にある聖堂を見上げた。
建設が始まったのは1882年で、最初からガウディが設計していたわけではない。当初は建築家フランシスコ・デ・パウラ・デル・ビリャールによるネオゴシック様式の計画だった。翌1883年に引き継いだガウディが構想を大きく変え、自然の形と幾何学を取り込んだ建築へ発展させた。
ガウディは1926年に亡くなるまで約43年間この仕事に関わったが、生前に完成を見た鐘塔は生誕のファサードにあるサン・バルナバの塔一本だけだった。今ある大きな聖堂を知っていると、本人が見届けた範囲の小ささに驚く。
その後も工事は単純に続いたわけではない。1936年のスペイン内戦では設計図や写真が焼かれ、石膏模型が壊された。残った資料や公表済みの図面を手がかりに模型を復元し、後の建築家や職人が計画をつないできた。完成を待つという言葉の中には、造る仕事だけでなく失われた構想を読み直す仕事も含まれている。
中へ入ると柱が上へ伸び、途中で枝のように分かれて天井へつながっていた。ガウディは聖堂内部を森のような空間にしようとしていたが、これは見た目のたとえだけではない。枝分かれした柱が上からの重さを受けて分散し、建物を支える構造そのものになっている。
青や緑、黄や赤のステンドグラスも空間の印象を変えていた。これらはガウディの構想を受けてジョアン・ビラ=グラウが制作を進めたものだ。柱の形も窓の色も一人で完成させた作品として見るより、異なる時代の人たちが何を読み取り、どう形にしてきたのかと考える方が、この建物の時間の長さに近い気がする。
今回訪ねた2024年春には、2021年に完成した聖母マリアの塔に加え、前年にそろった4本の福音書記者の塔が立っていた。僕が学生時代に訪ねた後も建設は進んでいた。自分の記憶との違いを前にすると十数年はあっという間に感じるが、その間にもここでは新しい形が造られていた。
展示室には細い糸と重りを吊り下げた模型があった。逆さまの建物のように見えるが、展示の向きはこれで合っている。これはコロニア・グエル教会のためにガウディが使った実験模型の復元で、サグラダ・ファミリアそのものの模型ではない。重りを下げて糸が引っ張られたときの釣り合いを調べ、その形を上下反転して柱やアーチが重さを受け止める形へ置き換える。
奇抜な形を先に思いつき、後から建て方を考えたという話ではなかった。自然の形を見て、力の流れを模型で確かめる。その方法を知ると、見上げた柱の枝分かれにも理屈があることが分かる。ガウディの見えていた世界のすごさは、形の大胆さだけでなく、それを成立させる方法まで考えていたところにあると感じた。






サン・パウ: 病院に庭と装飾が必要だった理由
サグラダ・ファミリアの後はサン・パウの前へ向かった。赤い壁とアーチの連なり、中央に立つ塔を外から眺める。今回は敷地の内部を見学せず、道路側から建物を見た。
ここはカタルーニャ音楽堂と同じドメネク・イ・モンタネールが設計した病院だ。その起源は1401年に市内の六つの病院を統合して生まれたサンタ・クレウ病院までさかのぼる。人口の増加と医療の変化によって旧市街の建物が手狭になり、銀行家パウ・ジルの遺贈をもとに1902年から新病院の建設が始まった。正式に開院したのは1930年で、サン・パウという名には支援者の意向が反映されている。
特徴は病棟を一つの大きな建物に詰め込まず、庭を挟んだ複数のパビリオンに分けたことだ。光や風、緑のある環境が患者の回復を助けると考えられていた。一方で建物同士は地下通路でつながり、庭の景色を分断せずに人や物を移動できる仕組みになっている。地上の庭と地下の通路がそれぞれ違う役割を担っていた。
2009年に診療機能は隣接する新しい病院へ移り、歴史的な建物群は修復されて見学や研究機関などの場として使われるようになった。音楽堂とともに世界遺産へ登録されたのは1997年。外から見た華やかな建物は、もともとは長く療養する人たちの生活の場所だった。
この背景を知ると、病院にここまでの装飾や庭をつくった理由が分かってくる。治療する機能だけでなく、そこで過ごす人が何を見て、どんな光や空気の中で一日を送るかまで建築の仕事に含めていたのだ。
音楽堂では歌う人と聴く人のために光が入り、こちらでは患者が過ごす環境として光と緑が考えられている。同じ建築家の二つの仕事をそう見比べると、装飾の似ているところ以上に、人が長くいる場所をどうつくるかという共通点があるように思えた。

グラシア通り: カサ・ミラとカサ・バトリョの夜景
昼はボケリア市場へ戻り、夜は海鮮の店MariscCoで食事をした。今回の食事も含めて店選びの話は別のグルメ記事にまとめている。
夜はグラシア通り周辺の建物を外から眺めた。カサ・ミラは石の壁が波打ち、窓とバルコニーがその曲面に沿って並ぶ。カサ・バトリョは照明の中に壁の色や窓枠、屋根の輪郭が浮かんでいた。
どちらもガウディが手がけた建物だが、音楽堂やサン・パウとは設計者が違う。街の建物をまとめて一人の作品として見るのではなく、それぞれの形を見比べながら歩いた。
旧市街の狭い路地から来ると、幅のある通りと大きな交差点の違いもよく分かる。建物のすぐ下で見上げるときと、通りの向こうから全体を見るときとで目に入る部分が変わった。


ラバル: ボテロの猫とグエル邸の外観を見て歩く
最終日の朝はラバルの通りへ出た。ランブラ・デル・ラバルにはボテロの大きな猫の彫刻がある。丸い胴体と長いひげを横から眺め、その後はグエル邸の前を通った。
グエル邸の正面には大きなアーチ形の入口が二つ並ぶ。こちらもガウディの建物だが、前夜に見たカサ・ミラやカサ・バトリョとは外観が違う。今回は中へは入らず、通りから見上げた。
ランブラス通りを下ってコロンブスの塔の周辺まで行き、旧市街へ戻った。



ピ地区の祭り: 聖人の記憶とFalconsがつくる人の塔
旧市街へ戻ると、ピ地区の広場に白い服と赤い帯の人たちが集まっていた。周囲を支える人たちの肩に人が乗り、その上にさらに人が立つ。教会の壁を背に細い塔のような形が伸びていた。
この週末に開かれていたのはサン・ジョゼップ・ウリオルの祭りだ。3月23日に近い週末に催されるピ地区の祭礼で、聖人をたたえる礼拝だけでなく巨人人形や獣の張りぼての行進、踊り、Falconsなどが組み合わさる。2024年も訪問した日曜の朝にFalcons de Barcelonaが出演していた。
ジョゼップ・ウリオルは17世紀のバルセロナに生まれ、1687年から1702年に亡くなるまでサンタ・マリア・デル・ピ教会で働いた聖職者だ。貧しい人や病人を助け、質素に暮らしたことから「パンと水の博士」と呼ばれた。祭りが記憶しているのは教会の歴史だけでなく、この地区で人を支えた人物のことでもある。
祭りの背景には古いものと新しいものが混じる。ピ地区の巨人人形には1601年までさかのぼる記録がある一方、僕が見たFalcons de Barcelonaの団体は2003年に生まれた。Falconsの源流はチェコの体操・文化運動ソコルにあり、カタルーニャで受け入れられて人の体で塔やピラミッドなどの形をつくる演目へ発展した。よく知られるカステルスと関わりはあるが、同じものではない。
古い祭りに古い演目だけが残っているのではなく、その時代の団体や表現が加わりながら続いている。このことを知ると、広場で見た人の塔も昔の風習の再現というより、今ここで参加する人たちの活動として見えてくる。
写真には上へ伸びる人だけでなく、足元や周囲で支える人たちも写っている。一人ではできない形を集団でつくり、それを同じ広場で見守る。その場面が聖人を記憶する地区の祭りの中にあることが面白い。建物を見て歩くだけでは分からない街のつながりが、こうした時間にも残っているのだと思う。
学生時代から姿を変えたサグラダ・ファミリアと、形を加えながら続く地区の祭り。3回目のバルセロナでは建物の変化だけでなく、街の中で何が受け継がれているのかにも目が向いた。


バルセロナの食事
バルセロナの宿泊: アバランブラホテル
泊まったのはラバル地区のアバランブラホテル。ランブラ・デル・ラバルに面し、旧市街を歩く拠点にした。
| 宿名 | 泊数 | 宿泊総額 | 参考円 |
|---|---|---|---|
| アバランブラホテル abba Rambla | 2泊 | €440 | 約71,920円 |
2024年春の宿泊記録。参考円は2024年3月28日の1ユーロ=163.45円で換算。
旅の地図
写真の撮影地点と宿の所在地を示している。グエル公園は以前に訪問済みだが今回は入口のみ。サン・パウは外観。地点間の移動経路は描いていない。
- ボケリア市場 · 市場を訪問・翌日も再訪 · Google Mapsで開く
- バルセロナ大聖堂 · 外観 · Google Mapsで開く
- サンタ・カテリーナ市場 · 市場内 · Google Mapsで開く
- カタルーニャ音楽堂 · 内部見学 · Google Mapsで開く
- サグラダ・ファミリア · 内部・外観・展示室 · Google Mapsで開く
- サン・パウ · 外観 · Google Mapsで開く
- グエル公園入口 · 当日券売切れ・園内入場なし · Google Mapsで開く
- カサ・ミラ · 外観 · Google Mapsで開く
- カサ・バトリョ · 外観 · Google Mapsで開く
- ボテロの猫 · 広場の彫刻 · Google Mapsで開く
- グエル邸 · 外観 · Google Mapsで開く
- ピ地区・祭りの広場 · Falconsの演目を見た撮影地点 · Google Mapsで開く
- コロンブスの塔周辺 · 周辺を訪問・塔内部は未確認 · Google Mapsで開く
- アバランブラホテル(abba Rambla) · 2泊・予約確認書の宿泊先 · Google Mapsで開く
参考資料
- サグラダ・ファミリア公式:建設の歴史
- サグラダ・ファミリア公式:柱の形と構造
- カタルーニャ音楽堂公式:建設と自然光
- UNESCO:カタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院
- バルセロナ観光局:サンタ・カテリーナ市場
- Falcons de Barcelona:2024年の活動記録・Festes de Sant Josep Oriol
- 祭りの参加団体連盟:2024年サン・ジョゼップ・ウリオル祭
- バルセロナ観光局:ボテロの猫
- バルセロナ市:2026年1月1日の市域人口
- バルセロナ県議会:市域の面積
- バルセロナ市:ローマ時代のバルキノ
- バルセロナ観光局:都市の歴史
- バルセロナ市:セルダの拡張計画と街区
- カタルーニャ音楽堂公式:合唱文化と1960年の事件
- サグラダ・ファミリア公式:建設史の冊子
- シュトゥットガルト大学:コロニア・グエル教会の吊り下げ模型と復元
- サン・パウ病院公式:600年の歴史と新病院
- サン・パウ公式:パビリオンと地下通路
- カタルーニャ州:ピ地区の祭りと行事構成
- サンタ・マリア・デル・ピ教会:歴史
- バルセロナ司教区図書館:ジョゼップ・ウリオルの来歴
- バルセロナ市:Falconsとソコルのつながり
- フランス銀行:2024年3月28日の為替
- サンタ・カテリーナ市場公式:市場の歴史
- サンタ・カテリーナ市場公式:改修と屋根のモザイク
- バルセロナ市:修道院から市場への変遷と考古学調査
- バルセロナ市市場局:市場一覧・1848年開場/2005年改修



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