- 朝焼けの寺院へ
- アンコール・ワットの朝焼け
- アンコール・ワット、王が神に捧げた寺院
- アンコール・トム、戦乱のあとに築かれた大きな都
- バイヨンの顔と、壁の中の暮らし
- バプーオン、長い参道の先にある石の山
- チャウ・サイ・テヴォーダ、木々の間の小さな寺院
- タ・ケウ、装飾の少ない寺院を見上げる
- タ・プローム、根と石が重なる場所
- バンテアイ・クデイとスラ・スラン、石から水辺へ
- シェムリアップの夜、そしてもう一度ソカーの車へ
- おすすめレストラン SAMBO Khmer & Thai Restaurant
- おすすめレストラン Khmer Taste
- おすすめの宿 Blanc Smith Residence
- 料金の換算について
- 東南アジアの旅をもう一つ
朝焼けの寺院へ
石の寺院が、空と水の間に浮かんでいた。朝焼けを背にしたアンコール・ワットの黒い塔が、手前の池にも映っている。空の青と橙が水面にまで広がり、巨大な建物の輪郭を上下から包む。目の前で夜の色が朝へ変わっていく。その景色は、非常に美しかった。
この朝の案内をお願いしたのは、前日の夜、空港からシェムリアップまで僕を乗せてくれたドライバーのソカーだった。街への送迎をきっかけに交渉して、翌日はアンコール・ワットと周辺の遺跡を巡る、一日のドライバーになってもらった。
今回の旅でソカーがしてくれたのは、目的地まで車を走らせることだけではなかった。遺跡についても、現地の生活についても、いろいろなことを教えてくれた。遺跡から次の遺跡へ向かう車の中でも、その土地の話を聞けた。短い滞在に、地元の人と話す時間が加わった。

アンコール・ワットの朝焼け
池の向こうに、アンコール・ワットの塔が並んでいた。朝5:56、僕はただ暗闇の中で朝日を待っていた。まだ黒い輪郭だった建物の背後で、空が少しずつ明るくなる。青い空に橙色が重なり、その色を水面が映していた。空にも池にも寺院があり、地上の石だけが、朝の光の中でゆっくり姿を現していく。
朝焼けで見るアンコール・ワットは、非常に美しかった。巨大な寺院を見るために来たはずなのに、この時間には建物だけを見ていられない。塔の間の空、池に映る輪郭、背後の光まで含めて、ひとつの景色になっていた。
アンコール・ワットで朝日を見ると、10年長生きできるという話がある。この「10年」という数字や、朝日を見ることと長寿を結びつけた話の起源は、定かではないらしい。ただ、この寺院には、命を永らえる願いを描いた古い神話が刻まれている。神々とアスラが海をかき混ぜ、不死の霊薬を得る「乳海攪拌」だ。朝日の言い伝えがその神話から生まれたとまでは言えないけれど、長寿の話のそばに、寺院に残る不死の物語があることも興味深かった。
僕が欲しかったのは、長生きそのものというより、旅を続けられる時間だった。10年分、知らない土地へ出かけられる時間を延ばしてほしい。朝焼けを見ながら、そんなことを思った。





アンコール・ワット、王が神に捧げた寺院
空が明るくなってから寺院へ入ると、遠くから見ていた輪郭が、階段や柱や回廊に変わる。中央へ向かうほど、建物の大きさだけでなく、石に刻まれた細部が目に入る。窓の向こうにも柱が続き、そのさらに奥に別の空間が見える。
アンコール・ワットを建てたのは、12世紀前半のクメール王、スーリヤヴァルマン2世だった。ヴィシュヌ神に捧げる国家寺院として造営した建物で、神を祀ることと、王の統治を示すことが結びついていた。建物の壮大さは、王国が持つ力を、石の形で目に見えるものにしていたのだと思う。
遺跡管理機関APSARAは、この寺院をヴィシュヌ神の宮殿であり、王自身が死後に住まう場所として説明している。信仰のための寺院であると同時に、王の死後の世界とも結びつく建築だった。西を正面とする向きや、浮彫を反時計回りにたどる構成を、葬送の儀礼と関連づける解釈もある。王墓としての役割については議論があるものの、王が自分の死後を託した場所として見ると、壮大な建物の意味が変わってくる。
朝焼けの中では、ただ美しい塔の輪郭を見ていた。その塔を建てた人が、自分の死後までを考えていたと知ると、同じ石の見え方が変わる。僕はこの朝を見るために短い旅をしてきたけれど、王がこの場所に託した時間は、自分の一生よりずっと長かったのだ。
寺院の造りには、神々の世界を地上に表すという発想がある。段を重ねて中央へ高くなる建物、周囲を巡る回廊、外側の堀。景色を美しく整えるだけでなく、世界の秩序を建築に表そうとしたものとして見ると、中央の塔に向かって歩くことにも意味が生まれる。太陽と建築の配置に暦や宇宙観を読み取る研究もある。石の建物を見に来たつもりでも、その姿を変え続けているのは空の光だった。朝焼けで見た美しさが、寺院の造りを知ることでもう一度つながった。
回廊の浮彫には、神話や戦い、人々の姿が広がる。「乳海攪拌」では、神々とアスラが大蛇ヴァースキを綱にし、マンダラ山を軸に海をかき混ぜる。朝の長寿の話を思い返しながら読むと、石の壁の向こうにも、限りある命を越えたいという物語が続いている。彫刻は装飾であるだけでなく、訪れる人に物語を伝える役目も持っていた。
やがて寺院は仏教の信仰を受け止め、16世紀には各地から人々が訪れる巡礼の場所になった。回廊の仏像とヒンドゥー教の物語が同じ建物にあるのは、信仰が移り変わっても、この場所が使われ続けたからだ。名前の「ワット」も仏教寺院を意味する。今の名前だけから、最初から仏教寺院だったと思い込んでしまうと、その長い変化を見落とす。
近くで見る石は、朝焼けの中で見た黒い輪郭ほど均一ではない。彫刻の溝、柱の表面、奥へ重なる戸口には、一つずつ違う細部がある。遠くから見れば整った大きな寺院で、歩けば、王の願いと神話と、その後の信仰が幾重にも残る場所だった。朝焼けだけを見て帰らず、内部まで歩けてよかったと思う。
APSARA アンコール・ワット / NASA 太陽と建築の配置














アンコール・トム、戦乱のあとに築かれた大きな都
アンコール・ワットを離れ、次はアンコール・トムへ向かった。この二つは似た名前でも、同じ場所を指してはいない。アンコール・ワットは寺院、アンコール・トムは城壁に囲まれた都市で、その中心にバイヨンがある。
「トム」は大きいという意味で、アンコール・トムは「大きな都」。現在見られる城壁都市の形を整えたのは、12世紀末のジャヤヴァルマン7世だ。その背景には、1177年のチャム軍によるアンコールへの侵攻と、そこからの王国の再建があった。勝利を収めて王となった彼は、新たな都を、政治と信仰の中心として整備した。
城壁と堀は、外からの攻撃に備える実用的な守りだった。同時に、その内側に王宮や寺院を置き、中央にバイヨンを据えた配置は、王国の中心がここにあることを示している。都市を守ること、王の統治を示すこと、仏教の信仰を都の中心に置くこと。その目的がひとつの街に重なっていた。
城壁に囲まれた範囲は約九平方キロメートルあり、外周は約十二キロメートル。入口は東西南北に一つずつ、さらに東側に勝利の門があり、合わせて五つある。正方形の都市だから四つの門だろうと思うと、もう一つあるのが面白い。勝利の門は、王宮方面から東へ伸びる、それ以前からの道を受け継いでいた。新しい王の都市にも、古い街の構造が残っている。
南大門へ向かう道の両側には、石像の列が続いていた。片側は神々、もう片側はアスラで、長い大蛇を抱えている。ここにも乳海攪拌のモチーフがある。寺院の壁に刻まれた物語が、今度は人が通る道を囲み、都に入る前の景色になる。戦乱のあとに再建された都市の入口に、不死の霊薬を生む神話が置かれている。その組み合わせに、王国の再生を読み取ることもできる。
門の上には大きな顔があり、その下を道路が通っている。幅のある堀と石像の列を越えて、ようやく門へ近づく。建物の大きさだけでなく、門に至るまでの景色全体で、人を迎え入れる造りだ。僕はソカーの車で観光に来たけれど、かつてこの入口に近づいた使節や商人には、王の都の力がずっと強く伝わったのだろう。
いま目立つのは石の寺院や門だが、都にあった住居の多くは木造で、長い年月のうちに失われた。13世紀末に訪れた周達観の記録には、人々の家の様子も残る。木々の間に見える遺跡だけが、かつての街のすべてではない。建物が残っていない場所にも、人が住み、暮らしていたのだ。
堀には小舟が浮かび、門の下には現在の道路が続いている。失われた都の歴史を知ったあとで見ると、この小さな動きが印象に残る。王が築いた都市の入口を、いまは旅人の僕が通っている。ソカーが教えてくれる現地の生活の話も、遺跡の外にある現在の街へ、僕の目を向けてくれた。
APSARA アンコール・トム / カンボジア国立博物館 ジャヤヴァルマン7世




バイヨンの顔と、壁の中の暮らし
バイヨンに近づくと、石の塔のあちこちに顔が現れる。塔全体を見ると建物なのに、一つの顔に目を向けると急に人の表情に見える。正面だけでなく、横にも、別の塔にも顔があり、見る位置で景色が変わる。
この寺院が造られたのは12世紀末、ジャヤヴァルマン7世の時代だ。大乗仏教を背景に、アンコール・トムの中心に築かれた。塔の顔が誰を表すのかには議論があり、観音菩薩や王の姿と結びつける解釈が知られている。ひとつの答えを当てはめるより、なぜこれほど多くの顔が都市の中心に置かれたのかを考えたくなる。
バイヨンのもうひとつの見どころは浮彫だ。神話や戦いだけでなく、市場や料理など、人々の日常も描かれている。王が建てた大きな寺院の壁に、普通の人の暮らしが残っている。そのことが、この場所と、ソカーが教えてくれた現地の生活の話をつなぐ。
遺跡を巡ると王の名前を覚えることが多いけれど、その時代を生きていたのは王だけではない。顔の塔を見上げる一方で、壁面には目線を近づけたい。都市の中心に、信仰と生活の両方が刻まれていた。






バプーオン、長い参道の先にある石の山
バプーオンには、寺院へまっすぐ伸びる長い参道がある。左右に広がる地面や木々に対して、細い石の道だけが中央へ続く。その先には、段を重ねた大きな建物が待っていた。
バプーオンは11世紀の寺院で、伝統的にはウダヤーディティヤヴァルマン2世の治世の建立とされる。シヴァ神に捧げられた寺院が、後世には仏教の寺院へと変化し、西側には大きな涅槃仏が組み込まれた。現在アンコール・トムの中にあるからといって、都市の中心にあるバイヨンと同時期に造られたわけではない。
この場所には、20世紀以降の修復の歴史も重なる。建物を解体して修復する大規模な計画が戦乱で中断し、その後、石を照合しながら再建が進められた。いま歩ける参道や、見上げられる寺院は、古い石がそのまま何事もなく残っていた結果ではない。
塔の装飾を近くから見る場所とは違い、ここでは道の長さと建物の高さがはっきり感じられる。同じ石造寺院でも、そこへ近づく道の造りだけで、見え方は大きく変わる。





チャウ・サイ・テヴォーダ、木々の間の小さな寺院
大きな寺院が続いたあと、チャウ・サイ・テヴォーダでは、木々の間に建物がまとまって見えた。高い塔だけに目を奪われず、門や周囲の石、寺院のそばの木まで、同じ景色の中で眺められる。
建築様式から12世紀の寺院と考えられているが、建立時期を確定する碑文は残っていない。近くのトマノンと並べて紹介されることが多いものの、今回ここで歩いた寺院の話は、チャウ・サイ・テヴォーダとして分けておきたい。
修復は、元の石材を組み直すアナスティローシスという方法で行われ、2009年に完了した。古い石と補われた部分の違いは、どこまで元の姿を戻すのかという保存の問いにもつながる。小さな寺院にも、造られた時代と修復された時代がある。




タ・ケウ、装飾の少ない寺院を見上げる
タ・ケウでは、中央へ伸びる急な階段と、段状に重なる石の塊が目に入った。アンコール・ワットの細かな彫刻とは違い、面の広さと輪郭が建物の印象をつくっている。
10世紀末から11世紀初頭、ジャヤヴァルマン5世の時代に造営された、寺院山形式の建物だ。彫刻の仕上げが進まないまま残された部分が多く、未完成の寺院として知られる。工事が止まった理由は確定していない。
未完成と聞くと、完成していたらどんな姿になったのかを考える。一方で、飾られていない石の面があるからこそ、建物の段差や高さが直接伝わる。壮麗な彫刻を見る旅の途中に、建築の骨格を見せるような寺院がある。


タ・プローム、根と石が重なる場所
タ・プロームでは、寺院と木の境目をたどるのが難しい。壁の上から太い根が垂れ、石の継ぎ目を越え、地面へ続いている。木だけを見ても、建物だけを見ても、この景色にはならない。
ジャヤヴァルマン7世が1186年に奉献した仏教寺院で、もとの名はラージャヴィハーラ、王の僧院だった。王の母を、智慧の完成を表す般若波羅蜜多と結びつけて祀ったという。巨大な根が目を引くけれど、その内側には王と母、そして仏教の信仰の関係がある。
木に覆われた姿だけを見ると、長いあいだ人の手から離れていた場所に思える。しかし、歩いた先には足場が組まれ、修復の機材も置かれていた。根を残した景観と、石の建物を安全に支える作業は、いまも隣り合っている。
写真では根の迫力を切り取れる。けれど現地の景色には、木、石、通路を歩く人、そして保存の作業も入っていた。タ・プロームは、昔の建物に自然が重なり、さらに現在の人の手が関わっている場所だった。







バンテアイ・クデイとスラ・スラン、石から水辺へ
バンテアイ・クデイの門にも、大きな顔があった。門を抜けると石の建物が続き、そばには獅子像が立っている。柱に刻まれた人物像や奥へ重なる戸口など、全体を一度に見るだけでは拾いきれないものがある。
12世紀末から13世紀初頭、ジャヤヴァルマン7世の時代の仏教僧院とされる。2001年には、上智大学の調査で仏像やその断片などがまとまって発見された。目の前に見える建物だけでなく、土の中に残されたものからも、この場所の宗教の変化が研究されている。
そこから水辺のスラ・スランへ向かうと、視界が広くなる。石の塔や戸口を見続けたあとで、目の前に水面が広がる。水際へ下りる階段と獅子像が、広い池の前に配置されていた。
スラ・スランの起源は10世紀にさかのぼり、のちにジャヤヴァルマン7世の時代に改修された。現在「王の沐浴池」と呼ばれるが、その名だけで、もともとの用途まで王専用の風呂だったと考えるのは早い。古代の水辺にも、時代とともに変わる使われ方があった。
朝焼けを見たのはアンコール・ワットだった。この水辺へ来たときには、もう空が明るかった。池の景色を並べてみると、同じ水面でも、周囲の建物と光の時間でずいぶん違う。
APSARA バンテアイ・クデイ / 上智大学の調査報告 / APSARA スラ・スラン







シェムリアップの夜、そしてもう一度ソカーの車へ
遺跡から街へ戻ると、旅の景色は食卓と夜の通りへ変わった。料理の皿とアンコール・ビールがあり、夜にはパブ・ストリートの照明が広がる。朝の石の塔と、夜の街の明かりが、同じ滞在の中にある。
街では一ドルで食べられるチャーハンにも出会った。その値段に驚き、シェムリアップは最高だと思った。遺跡の大きさばかりが旅の記憶になるわけではない。ひと皿の値段のような小さな驚きも、その土地の印象に残る。
翌日の空港への送りも、ソカーにお願いした。最初は空港から街へ運んでくれたドライバーだった人が、遺跡を巡る一日をともにして、最後の移動も任せる相手になった。短い旅だったけれど、到着と出発の間に、彼から聞いた遺跡や生活の話が入った。
空港へ向かう朝、シェムリアップの街は赤橙色の光に染まっていた。道路の先に丸い太陽があり、建物の壁も、走るバイクも、その光の中にある。朝の市場では店先に人とバイクが集まっていた。前日は遺跡で朝を迎え、この日は街の朝を見ながら空港へ向かう。同じシェムリアップでも、最後に残った景色は石の塔とは違っていた。
朝日を見れば10年長生きできるという話が本当かどうかは、わからない。それでも、旅を続けられる時間が10年延びたらいいと思った朝は、確かにあった。僕はその朝を持って、シェムリアップを後にした。







おすすめレストラン SAMBO Khmer & Thai Restaurant
遺跡を巡ったあとの昼食に立ち寄ったのが、ワット・ダムナック地区のSAMBO。クメール料理とタイ料理を出す店で、春巻きとカレー、アンコール・ビールを楽しんだ。街へ戻って、料理とビールでひと息つきたいときの候補になる。
| 店名 | 特徴 | お会計 |
|---|---|---|
| SAMBO Khmer & Thai Restaurant | クメール料理とタイ料理。春巻き・カレー・ビールを注文 | 9.75 USD(約1,520円) |



おすすめレストラン Khmer Taste
夜に立ち寄ったKhmer Tasteは、ソク・サン・ロードの店。入口には料理の写真が並び、客席は通りに開かれている。カンボジア料理を食べてから、パブ・ストリート周辺を歩きたい夜に組み込みやすい。ココナッツの器に盛られた料理や、肉料理とご飯の皿、アンコール・ビールが、この夜の食卓に並んだ。



おすすめの宿 Blanc Smith Residence
今回2泊したのは、Blanc Smith Residence。7 Makara Streetにある宿で、オールド・マーケットやパブ・ストリートへ徒歩で出かけられる立地だ。遺跡観光は車で出発し、夜は街で食事をする。そんなシェムリアップ滞在の拠点に選びやすい。
| 宿名 | 泊数 | 宿泊総額 | 参考円 |
|---|---|---|---|
| Blanc Smith Residence | 2泊 | 86.33 USD | 約13,430円 |
料金の換算について
円概算は旅行時期に合わせ、2025年1月24日の1 USD=155.58円で換算し、10円単位に丸めた。料金は今回の会計・宿泊の記録であり、現在の料金とは異なる。



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