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朝六時、サン・マルコ広場へ
朝六時のサン・マルコ広場には、石畳がこんなに広く見えるほど、人がいなかった。
前の晩にも歩いた場所だ。暗い空の下で照明を浴びていた建物に、今度は朝の光が当たっている。水辺にはゴンドラが並び、向こう岸の教会が明るくなっていた。
ベネチアが美しい街だということは、来る前から知っていた。それでも、朝の街は想像していた以上だった。広場から路地を抜け、大運河へ。アカデミア橋の方から見たサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂は、水面と一緒に淡い色に包まれていた。
今回の旅では、このベネチアを拠点にパドバにも足を延ばした。水の上から眺める建物、大学に残る古い教室、礼拝堂の青い天井。まずは、前日の到着から書いておきたい。



船から眺めた街を、歩いてたどる
ベネチアに着いて、船から街を眺めた。目の前を別の船が横切り、その向こうに橋や教会が現れる。建物の正面が、そのまま運河に向いている。まず、この街では水の上を進むのが自然なのだと思った。
ベネチアの始まりには、戦乱を逃れた人々がラグーナの島々に移り住んだ歴史がある。一時的な避難先だった場所に暮らしが根づき、やがて海上交易の拠点へと育っていった。十世紀には有力な海洋都市となり、地中海の東西を結ぶ交易で栄えた。目の前にある華やかな建物も、水に囲まれた土地で暮らし、船で人や物を運んできた歴史の上に立っている。[9]
もう一つ面白いのが、建物を支える基礎に木の杭を使ってきたことだ。水面に接する石造りの街を見ていると、その下に木を使った土台があるとは思いにくい。運河も建物も、もともとの土地に手を加えながらつくられてきたものだと知ると、景色の見え方が少し変わる。美しさと一緒に、この場所に街を築く手間の大きさが気になってくる。[10]
岸辺には細い柱が並ぶ建物もあれば、大きなドームを載せた教会もある。陸の上から一つずつ見て回るのとは違って、水の上ではいくつもの建物を続けて眺められた。運河に面した姿を見てから歩き始められたのはよかった。
宿はホテル・チェンタウロ。鍵を受け取り、街へ出た。歩くと、船から見た街とは距離が変わる。細い道の先に運河があり、建物の間をのぞくと、さっきよりずっと狭い水路が見える。船からは連なって見えた建物の間を、今度は自分の足でたどっている。橋を渡るたびに水面の向きが変わるのも、歩いていて楽しかった。
昼食にはムール貝とカルボナーラ。食事を終えてから、サンタ・ルチア駅へ向かった。この日の午後は、天文学への興味から訪れてみたかったパドバへ行く。







パドバ大学で、ガリレオの名前に出会う
パドバに来たきっかけは、その年に話題になっていた、地動説をめぐる漫画だった。すっかり感化されて、天文学が気になり始めた。われながら浅い理由ではある。でも、ガリレオが教えていた大学や、古い天文台があると知ると、実際に見てみたくなった。ベネチアからは鉄道で移動し、サンタ・ルチア発の列車は切符の時刻では三十分ほどで到着。駅からはタクシーを使い、大学の歴史的な建物、パラッツォ・ボーへ向かった。
パドバはベネチアの西にある、ヴェネト州の内陸の街だ。ローマ時代から栄え、中世には自治都市として発展した。十四世紀にはカッラーラ家の支配を受け、1405年にはベネチアの領土になっている。今回の二つの街は、列車で近いだけでなく、歴史の上でも長く関わっていた。[11]
そのパドバにあるのが、1222年創立のパドバ大学。ヨーロッパ最古級の大学の一つだ。[21]ボローニャから移ってきた学者や学生たちが、大学の成立に関わったという。創立年は最初期の大学組織を示す公証記録に基づくもので、学びの場自体はそれ以前からあった。八百年以上前から、人が集まり、教え、学ぶことで続いてきた大学なのだ。[12]
中庭を囲む回廊を抜けると、壁を埋める紋章や、天井まで装飾された大講堂がある。その中にガリレオの名があった。木製の講壇や胸像を前にすると、教科書の中の人物にも、毎日通い、人に教える場所があったのだと実感しやすくなる。天文学に関心があって来た僕には、この距離の近づき方がうれしかった。
ガリレオがここで数学を教えたのは1592年から1610年まで。さらに時代をさかのぼると、コペルニクスも1501年から1503年にかけてパドバで学んでいる。同じ時代にいたわけではないけれど、宇宙の捉え方を変えていった二人が、一つの街に関わっていたことが面白い。[1][2]
解剖劇場は、大講堂とはまったく違う空間だった。木の手すりが何層にも重なり、中央へ向かってすぼまっていく。1595年に開設された常設の解剖劇場で、六層の観覧席から人体の解剖を見て学ぶつくりになっている。実物を見ると、観察するためにこの形が必要だったのだとよく分かる。[3]
星を見ることと人体を見ることは、対象こそずいぶん違う。それでも、実際に見て確かめるための場所や道具に惹かれる点では、僕の中でつながっていた。ガリレオの名前を目当てに来た大学で、教室そのものの形まで印象に残った。






ジョットの礼拝堂で、青い天井を見上げる
大学を出て、エレミターニ教会へ。長い身廊の上には木の天井が続き、奥には壁画の残る空間があった。この教会は1944年の空襲で大きな被害を受け、木の天井も再建されたものだという。マンテーニャが手がけた壁画も戦災に遭っている。古い教会に見えた場所に、失われたものと、それを残そうとしてきた人たちの仕事が重なっていた。[13]
そして、スクロヴェーニ礼拝堂へ入った。天井は星を散らした青。その下をいくつもの絵の場面が取り囲み、入口側の壁には大きな「最後の審判」が広がっている。天井だけでなく、左右も振り返った先も絵が続く。美術館で一枚の絵に向き合うのとは、ずいぶん違う見え方だった。
この礼拝堂はエンリコ・スクロヴェーニの依頼で装飾され、もとは一族の邸宅に付属していた。ジョットが壁画を描いたのは1303年から1305年。マリアとキリストの生涯、善徳と悪徳、最後の審判が、壁面全体を使って表されている。建物が立つ場所は古代ローマの競技場の跡で、礼拝堂の名前を調べると「アレーナ」という呼び方にも出会うのはそのためだ。[14]
ジョットは、十三世紀末から十四世紀に活躍したトスカーナの画家。人物の体に厚みを持たせ、建物や人の配置で奥行きをつくり、喜びや悲しみを表情や身ぶりで伝えたことが大きな特徴だ。たとえば、ヨアキムとアンナが再会する場面の親密さや、幼子を失う母親たちの悲しみ。空間の奥行きと人物の感情に目を向けると、物語を追う手掛かりが増える。[15]
壁画の意味が気になって、その場にいたスタッフに聞いてみた。
以下の会話は、スタッフに尋ねた体験と壁画の解説をもとに再構成しています。
「これ、どこから見ればいいんでしょう」
青い天井にはすぐ目が行った。でも、壁に並ぶ絵は、何を描いているのか分からないものが多かった。
「マリアとキリストの生涯が描かれているんです。一つずつの場面が、つながっています」
「じゃあ、隣の絵にも続きがあるんですね」
「ええ。それから、下の方には善徳と悪徳が。入口側にあるのが、最後の審判です」
「ああ、あの大きな絵」
壁を埋めている絵が、少しずつ読めるものになっていく。まず一つの場面を見て、その隣を見る。人物の顔や、誰かへ伸ばした手にも目が留まる。さっきまで通り過ぎていたところだった。
「全部の話を知っていたら、また違って見えそうですね」
聞きたいことは、まだあった。ただ、教えてもらったことを確かめるように、もう少し絵を見ていたかった。[14][15]
僕は、まず青い天井の美しさに目を引かれた。でも、描かれた人たちのしぐさにも目を向けると、宗教画が少し身近になる。物語を全部知っていなくても、誰かを大切に思うことや、失って悲しむことなら想像できる。大きな歴史の話を、個々の人の表情まで近づけて見られるのが、この壁画の面白さだと思う。
現地で眺めた青い天井を思い返しながら背景を知ると、パドバに来た理由がもう少し広がった気がする。


パドバの広場を歩き、ラ・シャーボラで夕食
礼拝堂を出て、街を南へ歩いた。プラート・デッラ・ヴァッレでは、彫像の並ぶ広場の向こうにサンタ・ジュスティーナ聖堂が見える。大学や礼拝堂の室内から出ると、空の広さが際立っていた。
広場の中央には、水路に囲まれた緑の島がある。いまの姿につながる整備が進められたのは十八世紀後半で、中心の島を「イーゾラ・メンミア」と呼ぶのは事業を進めたアンドレア・メンモにちなむ。歴史上の人物の像が水路沿いに並ぶ様子は、広場の中を歩きながら眺められる野外の展示のようだった。[17]
夕食はラ・シャーボラで。タコ料理と魚介のリゾットを食べた。昼はベネチアでムール貝、夜はパドバでまた魚介。内陸に移動してきたけれど、この日食べたものには海の食材が続いていた。
大学では上を見たり、解剖劇場をのぞき込んだり、礼拝堂では壁から天井へと目を動かしたりしていた。食卓の写真を見返すと、そこで一度座って食事をした時間も、見学の続いた午後の中にちゃんと残っている。
食後は石畳の道を進み、ラジョーネ宮の周辺からシニョーリ広場へ。ラジョーネ宮は1218年に建設が始まった建物で、かつて市の裁判所が置かれていた。今回は周辺を歩き、その大きな屋根や回廊を外から眺めた。広場にはテーブルが並び、人が集まっている。大学や礼拝堂だけでなく、こうして建物の外で過ごす夕方もよかった。[18]





スペーコラ天文台から、夕暮れのパドバを見渡す
夕方、スペーコラ天文台のツアーに参加した。天文学に興味があって訪れたパドバで、大学と並んで楽しみにしていた場所だ。水辺に立つ塔の中へ入り、古い観測機器の置かれた部屋を見て回った。
この塔は、初めから天文台として建てられたものではない。もとは街の古い城の大きな塔だった。ベネチア共和国の元老院が天文台の設置を決めたのが1761年。塔を観測施設へ変える工事は1767年に始まり、十年をかけて進められたという。パドバとベネチアの歴史が、ここでもつながっていた。[5]
ガリレオの街にある古い天文台、と聞くと、つい本人がここで空を見ていたように思えてくる。でも、ガリレオがパドバを離れたのは1610年。スペーコラの成立はずっと後だ。大学で見た講壇と、この塔の観測機器は、天文学に関わる違う時代のものとして見る方が面白い。
展示されているのは、別の場所に道具だけを集めたものではない。十八、十九世紀の天文学者が使った部屋や機器、家具を残す博物館だという。細長い望遠鏡を前にすると、何が見えたのかだけでなく、どうやって向きを合わせ、観測を続けていたのかも気になった。道具と、それを使う場所を一緒に見られるのがよかった。[5]
青い天井を背景に、望遠鏡が置かれている。同じ日に見たスクロヴェーニ礼拝堂の青を思い出した。描かれた星空を見上げたあとに、空を調べるための道具を見る。別々に予定していた訪問先が、その日の中でつながって感じられた。
塔から外を見る頃には、空の低いところにオレンジ色が残っていた。少し前まで建物の間を歩いていた街を、今度は屋根の上から見渡す。大学や礼拝堂の室内、夕食、広場、そしてこの眺め。天文学を目当てに来たパドバで、夕方まで歩いてよかったと思った。
ツアーを終えて、鉄道でベネチアへ戻った。夜の運河には建物の照明が映っている。サン・マルコ広場もひと歩きして、この日を終えた。翌朝、もう一度ここへ来ることになる。




朝の広場から、市場と宮殿へ
翌朝の散歩のあと、リアルト橋の方へ向かった。朝早くには人の少なかった広場も、時間が進めば街の一部として動き出している。橋の上には人が行き交い、運河には船が通っていた。
市場にはトマトやズッキーニが並び、魚の売り場もある。前日に食べたムール貝やパスタを思い浮かべながら歩くと、建物ばかり見ていた街に、食べ物の景色が加わる。
路地や橋を歩き、ため息橋の見える水路へ。その後、ドゥカーレ宮殿に入った。外から見た柱廊の軽やかさに対して、内部は壁も天井も大きな絵で埋められている。
ここはかつてのベネチア共和国の政治と司法の中心だった。大評議会の間の壁面には、ティントレットと工房による巨大な「天国」がある。宮殿の装飾は、ただ豪華な住まいをつくるためのものではなく、共和国の権威を示すものでもあった。[6]
大きな絵を見上げていると、ここで政治の話をする人たちは、いつもこうした装飾に囲まれていたのかと考えてしまう。船から見た豪華な街並みと、宮殿の内部の広さが、共和国の力を示す景色としてつながってきた。
窓の向こうには水辺が見えた。外を歩いて眺めた同じ景色が、宮殿の中からだと窓の形に切り取られる。部屋の大きな絵と、窓の外の街を交互に見ながら進んだ。







聖堂の金色と、路地の先の夕食
昼にはイカ墨のパスタを食べ、午後はサン・マルコ聖堂へ入った。内部では、金色の装飾の中に絵や人の姿が重なって見える。
祭壇の背後にあるパラ・ドーロは、金細工とエナメル画を組み合わせた祭壇飾りだ。かつては大きな祝祭など特別な機会に開かれ、普段は覆われていたという。目の前の輝きにも、いつ、誰に見せるものだったのかという歴史がある。[7]
サン・マルコ聖堂には五百本を超える柱があり、柱頭には古代のものやビザンチン時代のものも含まれるという。さまざまな時代の部材が、一つの聖堂の中に組み合わされている。金色の面だけが印象に残りそうな空間だけれど、柱や石の違いにも、この街が外の世界と関わってきた長い時間がある。[19]
夕方にはボーヴォロの螺旋階段の外観を見てから、ホスタリア・ダ・フランツへ向かった。建物の間の小さな場所に店があり、入口には赤いひさしが掛かっている。
「ボーヴォロ」はベネチアの方言でカタツムリの殻を意味する言葉。十五世紀末につくられた螺旋階段は、外側からもくるくると上がる形が見える。名前を知ると、少し親しみが湧いた。宮殿や聖堂の大きな空間を見たあとに、路地の先でこういう建物に出会えるのも、ベネチアを歩く楽しさだった。[20]
料理は前評判どおり、おいしかった。特によかったのがワインで、グラスで頼んでも質の高いものが出てくる。料理だけでなく、合わせて飲む一杯にも満足できた。
食事を終えると、まだ空に青さが残っていた。サン・マルコの水辺を歩き、夜の大運河へ。朝に眺めたサルーテ聖堂が、今度は照明を受けて水面の向こうに見えていた。










今回歩いた場所
ベネチアとパドバの間は鉄道で往復。ベネチアでは船と徒歩、パドバでは駅からタクシーを使い、その後は街を歩いた。
訪問・撮影地点の参考位置図です。ピンは入口の案内や実際の移動軌跡を示すものではありません。
今回の食事と宿
| 飲食店 | 今回の食事・特徴 | お会計 |
|---|---|---|
| La Sciabola ラ・シャーボラ(パドバ) | タコ料理と魚介のリゾットなどを食べた店。 | EUR 72 参考:約11,733円 |
| Hostaria da Franz ホスタリア・ダ・フランツ(ベネチア) | 料理に加え、グラスワインの質も印象に残った。 | 約EUR 150 参考:約24,444円 |
| 宿 | 泊数 | 総額 |
|---|---|---|
| Hotel Centauro ホテル・チェンタウロ | 2泊 | EUR 614 参考:約100,057円 宿泊税を含む |
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円換算は2025年5月末の参考値として、5月30日のフランス銀行公表レート(1 EUR=162.96 JPY)を使用し、1円単位で四捨五入。実際の円決済額ではありません。換算レートの出典
歴史・作品・換算の参考資料
- パドバ大学:ガリレオのパドバ時代
- パドバ大学:コペルニクスの滞在
- パドバ大学:解剖劇場
- パドバ観光局:スクロヴェーニ礼拝堂
- INAFパドバ天文台:施設史
- ベネチア市立博物館:ドゥカーレ宮殿
- サン・マルコ聖堂:パラ・ドーロ
- フランス銀行:2025年5月30日の為替参考値
- UNESCO:ベネチアとその潟
- Venezia Unica:水の街の基礎と運河
- パドバ観光局:街の歴史
- パドバ大学:十三世紀と大学の成立
- パドバ観光局:エレミターニ教会
- スクロヴェーニ礼拝堂:建物と壁画の歴史
- スクロヴェーニ礼拝堂:ジョットの空間と感情の表現
- パドバ観光局:プラート・デッラ・ヴァッレ
- パドバ観光局:ラジョーネ宮
- サン・マルコ聖堂:柱と柱頭
- World Monuments Fund:ボーヴォロ階段
- パドバ大学:大学概要と1222年の創立


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