
2025年11月下旬、早朝にエレバンへ着いた。ホテルでは追加料金を払って早めに部屋に入り、少し眠ってから街へ出た。
共和国広場まで来ると、車が行き交う道路の向こうに、石造りの大きな建物が並んでいた。広場には、まだ飾り付けのない大きなツリーの骨組みが立っている。まずは食事をして、今日はエレバンの街を歩く。翌日は車で郊外の寺院を巡る予定にしていた。
エレバンの街歩き――昼ごはんから、線路沿いと路地へ


昼ごはんはZaatar Pizzaへ。薄い生地に肉をのせて焼くラフマジュンと、小さな肉入りの包みをヨーグルトと合わせたマントゥを頼んだ。
アルメニアの食卓では、肉や野菜にハーブを添え、薄焼きパンのラヴァシュや、マツンと呼ばれるヨーグルトを組み合わせる。ヨーグルトは朝食だけでなく、スープや料理にも使われる食材だ。ラフマジュンやマントゥもアルメニアだけに限らず、周辺の地域でさまざまな形で食べられている。僕もこの昼は、薄い生地に肉をのせた一品と、ヨーグルトを使った一品を選んだ。


食後は公園を通り、長いトンネルを抜けた。行き着いた先には小さな駅舎があり、木々の間に線路が延びていた。エレバンのChildren’s Railwayだ。
線路沿いには落ち葉が積もり、枝に残った葉にも日が当たっている。11月の街歩きで、特に印象に残った景色だった。


その後は路地を歩いた。道の上には葉の茂ったつるが延び、家の前には車が停まっている。広場で見た大きな建物から、窓やベランダ、玄関のある家々へと、歩く先の景色が変わっていく。


カスケードでは大階段を下から眺め、内部のエスカレーターで上へ向かった。ここは街の中心部と北側の高台を結ぶ、庭園や彫刻、展示室を備えた大きな階段状の複合施設だ。
構想のもとには、建築家アレクサンドル・タマニアンの都市計画がある。ソ連時代に建設が進められたものの、1988年の大地震と、その後のソ連崩壊で工事は中断。2000年代に改修が進み、2009年にカフェスジアン・アートセンターが開館した。
高いところまで来ると、街の建物が遠くまで見渡せた。エスカレーターで上がってきた先に、さっきまで歩いていたエレバンが広がっている。昼の光を受けた街を見下ろしてから、また中心部へ戻った。

夕食はTavern Yerevan(Pandok Yerevan)のアミリャン通り店へ。石のアーチの下に席が並んでいた。ビールを飲み、ヒンカリや羊肉の料理を食べる。街を歩いたあとのビールがうまかった。

夜の共和国広場は、昼とはずいぶん印象が違った。建物の輪郭が照明で浮かび、道路には車のライトが続いている。昼間に見たツリーの骨組みも、暗い空の下に残っていた。
Charents’ Archから見た、朝霞のアララト山

翌朝は、予約していた車で郊外へ出た。ドライバーのアルメンは、40代くらいに見えた。短く刈った髪のこめかみには白いものが混じり、濃い眉の下の目は、笑うと細くなった。話し声は低く、言葉の間を急いで埋めようとはしない。僕が窓の外を眺めているときは、そのままにしておいてくれる人だった。目的地に着くと僕は一人で見学し、移動中の車内ではアルメンがいろいろな話を聞かせてくれた。
道中、アルメンが予定に加えて特別に寄ってくれたのがCharents’ Archだった。石のアーチの向こうに、アララト山が見えていた。

山の麓は朝霞に包まれていた。その上に大きな山頂が浮かんでいる。ノアの方舟の伝説に興味があった僕には、ここで実際に山を見られたことが、とても大きかった。霞んでいるのに、山の大きさははっきりと伝わってくる。神々しい、という言葉がそのときの感覚に近い。
アララト山は、ノアの方舟がたどり着いた場所として長く語り継がれてきた山だ。現在はトルコ領にあり、僕はアルメニア側からその姿を眺めていた。
この日の車内で聞いた話にも、ノアの名が出てきた。エレバン市内でハイク・ナハペト像の前を通ったとき、アルメンはこう教えてくれた。
「アルメニア人はハイクの子孫で、そのハイクはノアの子孫なんだ」
アルメンによると、アルメニア人の始祖ハイクは、ノアへとつながる一族の祖先なのだという。ハイクは伝説上の英雄で、ノアの息子ヤペテの系譜に連なると伝えられている。
ハイクの伝承では、彼はバビロンの支配者ベルに従うことを拒み、一族を率いて移り住む。追ってきたベルを弓で倒し、自分たちの土地と自由を守ったとされる。アルメニア人が自らを「ハイ」と呼ぶことも、この英雄の名に結び付けて語られてきた。
ノアの方舟の話は、ここでは山の伝説だけでなく、人々の始祖の物語にも続いていた。アルメンは街に立つハイクの像の前で、そのつながりを僕に教えてくれたのだった。
ゲガルド修道院――一人で入る、岩を掘った教会

車を降り、ゲガルド修道院の門をくぐった。建物のすぐ後ろには岩山が迫っている。早い時間で、僕が見学していたときはほかに人がおらず、一人で中へ入った。

堂内は暗く、差し込む光が床の一部を照らしていた。外で見た建物だけでは分からなかったが、ここには岩そのものを掘って造った教会や墓所がある。石を積んだ空間から岩をくり抜いた空間へ、一人で歩いて回った。
創建は4世紀の聖グリゴルにさかのぼるという伝承がある一方、現在の主要な建築群が形になったのは13世紀。古い由来を持つ修道院に、中世の人々が教会や墓所を造り加えていった。
「ゲガルド」は槍を意味する。かつて、十字架上のキリストを刺したと伝えられる聖槍が、ここに保管されていたことに由来する名前だ。

厳かな場所を、急かされずに一人で見ていられる。それがうれしかった。朝に山を見たあと、今度は聖槍の伝承を持つ修道院を歩いている。次の場所へ移動する前に、この静けさを味わえたのはよかった。
シンフォニー・オブ・ストーンズ――岩壁に沿って歩く


次に歩いたのは、シンフォニー・オブ・ストーンズと呼ばれる渓谷だった。岩の柱が何本も並び、頭上で曲がりながら連なっている。足元の道に沿って、その岩壁が続いていた。
これは溶岩が冷えて収縮する過程で割れ、柱のような形になったものだという。自然にできた形だと分かっていても、目の前で見ると圧倒される。修道院では人が岩を掘った空間を歩き、ここでは自然が造った岩の形を見上げていた。
ガルニ神殿――キリスト教以前の信仰を伝える柱廊

渓谷のあとに訪れたガルニ神殿は、周囲に柱を巡らせた建物だった。さっきまで見ていた教会とは形が違う。高い台座の上に立つ神殿と、その背後の山々がよく合っていた。
ガルニは一般に、1世紀にティリダテス1世が建て、太陽神ミフルに捧げた神殿とされる。周囲には王の居所や浴場もあり、神殿の列柱にはギリシャ・ローマ世界とのつながりが見える。
4世紀初めにアルメニアがキリスト教を国教としたとき、多くの旧来の神殿が破壊された。その中で、なぜガルニは残ったのか。よく知られるのは、当時の王ティリダテス3世の妹のために、夏の住居として使われたからだという説だ。王族の施設だったことが存続に関わったと考えられているが、もともと墓廟だったという見方もあり、理由は一つに定まっていない。
その後、1679年の地震で倒壊した建物は、ソ連時代の1969〜1975年に残された石材を使って再建された。今見ている列柱の姿には、古代の建築と、それをもう一度立ち上げた人々の仕事が重なっている。

柱の間にも日が差し込んでいた。ここは建物だけでなく、周囲の山まで含めて美しい場所だった。正面から眺め、横へ回り、柱の間から外を見る。
当時の人々も、この美しさに何か畏怖のようなものを感じたのではないか。実際にどんな気持ちでここに立ったのかは分からないけれど、山を背にした列柱を見ていると、そう想像したくなった。
ホル・ヴィラップ――アララト山の麓に立つ修道院

ホル・ヴィラップでは、石の壁に囲まれた敷地へ入った。ここにも、アルメニアのキリスト教に深く関わる伝承がある。
ホル・ヴィラップは「深い穴」という意味だ。伝承では、キリスト教を信じたグリゴルがティリダテス3世によって穴に閉じ込められ、13年もの間を過ごしたという。のちに解放されたグリゴルは王を癒やし、その改宗を導いたとされる。
アルメニアは、伝統的に301年に世界で初めてキリスト教を国教とした国として知られている。ここで幽閉されたというグリゴルが、その転換を担った人物として語り継がれているのだ。古い伝承の残る穴を囲むように、17世紀に建てられた教会と城壁が立っていた。

少し離れた場所から見ると、小高い丘の上に修道院がまとまって見えた。その後ろにはアララト山がある。このときも霞がかかり、山の輪郭は淡かった。それでも、修道院と山が重なる景色は美しかった。朝のアーチから見た山を、今度はこの修道院と一緒に写真に収めた。
エチミアジン――ノアの方舟と聖槍の伝承に出会う

午後はエチミアジンへ向かった。大聖堂はアルメニア使徒教会の中心となる場所で、創建は4世紀初め。その後も改築や修復が重ねられてきた。
ここでは宝物館の展示も見た。ノアの方舟の破片や、ロンギヌスの槍と呼ばれる聖槍にまつわるものを見ることができる。


いずれも教会が聖遺物として伝えてきたもので、方舟の断片やキリストを刺した槍だと歴史的に実証された、という意味ではない。けれど、その名前を聞くだけでも、こうした伝説が好きな僕にはたまらなかった。
朝にはノアの方舟にまつわる山を見て、ゲガルドでは槍の名を持つ修道院を歩いた。今は、その伝承に結び付く品が目の前にある。正直にいえば、厨二病心を鷲掴みにされた。

展示を見て外へ出ると、門の模様が日を受けて床にくっきりと映っていた。暗い修道院の内部から、神殿の柱の間、そしてこの門まで、一日の中でいろいろな石の建物を歩いた。
ズヴァルトノツから、エレバンの夜へ

最後に立ち寄ったのはズヴァルトノツだった。道の先に、屋根を失った建物の柱が並んで見えた。7世紀半ばに建てられた大聖堂の遺構だ。ホル・ヴィラップの穴に幽閉されたと伝わるグリゴルと、彼の働きによって改宗へ向かったティリダテス3世。その二人が出会った場所として語り継がれているのが、ここズヴァルトノツだ。
ゲガルドのように岩の中へ入る場所もあれば、エチミアジンのように教会と宝物が伝えられている場所もある。ズヴァルトノツでは、建物の上にそのまま空が広がっていた。見学を終え、車でエレバンへ戻った。

市内では、共和国広場の街灯がともっていた。車で巡った一日を終え、またエレバンの街に戻ってきた。
夜はYasmineへ食事に出かけた。ビールにスープ、それから肉と野菜の載った皿。翌朝は早くに空港へ向かう。席につき、ビールを飲んだ。
アララト山を見られたことは、やっぱりうれしかった。けれど、山の姿と一緒に思い出すのは、アルメンが話してくれたハイクのことだ。興味を持っていたノアの方舟の伝説が、ここでは人々の祖先の話にもつながっていた。街の銅像にも、山にも、教会にも、それぞれに語り継がれてきた話がある。それを少し知れたことが、この旅では面白かった。
車の中で話を聞き、一人になって建物を見て回る。その繰り返しが、僕にはちょうどよかった。もう少し聞いてみたいこともある。翌朝の出発は気になるけれど、食事をしている間は、今日見たものをゆっくり思い返していたかった。
今回利用したツアー
郊外巡りはGetYourGuideで予約したThe Land of Noahのプライベートツアーを利用した。ホル・ヴィラップ、ガルニ、ゲガルド、エチミアジン、ズヴァルトノツを車で巡る、ホテル送迎付きのプランだ。僕のときは各地を一人で見学し、車内でドライバーの話を聞く形だった。
Charents’ Archは当日特別に立ち寄ってもらった場所。訪問順や追加の立ち寄り先、入場料などの条件は、予約時に確認しておきたい。
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ほかのアルメニア観光ツアーを探す
以下は今回利用したツアーとは別の予約候補です。訪問先や送迎、ガイドの有無を比較して選べます。
おすすめのレストラン
| 店名 | 具体的な特徴 | お会計 |
|---|---|---|
| Zaatar Pizza | 肉をのせた薄焼きのラフマジュンと、ヨーグルトに包まれた小さなマントゥ。生地の使い方が違う2品を組み合わせられる。 | AMD 1,900 約766円 |
| Tavern Yerevan(Pandok Yerevan) アミリャン通り店 |
石のアーチが連なる店内。ひだを寄せたヒンカリや羊肉料理に、アルメニアのビール、赤ワインを合わせた。 | AMD 8,415 約3,392円 |
| Yasmine | スープと肉・野菜の盛り合わせを注文。肉料理の皿には、焼き色のついた野菜も添えられていた。 | AMD 8,250 約3,326円 |
宿泊したホテル
| 宿名 | 泊数 | 総額 |
|---|---|---|
| 14 Floor Hotel | 2泊 | AMD 68,000 約27,411円 |
宿泊総額には早朝チェックイン代を含む。料金は旅行当時の実績。
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円換算は2025年11月3日の参考レート(1 AMD=0.4031円)で算出。実際のカード決済レートとは異なる。
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