ウズベキスタン旅行記|タシュケントからサマルカンドへ

アジア

八十年前の戦争が、旅先で急に近くなった。

タシュケントに、日本人の墓がある。戦争が終わっても帰国できず、この土地で亡くなった人たちが眠っている。青い建物を見に来た旅で、僕は日本までの遠さを考えていた。

タシュケントに着いた晩は、大きな商業施設と明るいビルを見て、街全体が浮き立っているような、バブリーな雰囲気にそわそわしていた。その翌日、日本人墓地へ向かうことになる。

タシュケントの地下へ

地下鉄の階段を降りると、外を歩いていたときとは視線の向きが変わる。天井を見上げ、柱を眺め、ホームの壁の前で足を止めた。

ウズベキスタン駅の照明は、花が開いたような形をしている。アリシェル・ナボイ駅では、天井の丸みに細かな模様が広がり、柱の間を人が行き交っていた。パフタコール駅の壁には、綿花を思わせる白い模様が並ぶ。駅ごとに、別の建物へ入ってきたような違いがある。

ウズベキスタン駅のホーム。天井から花形の照明が下がる。
ウズベキスタン駅のホーム。天井から花形の照明が下がる。
アリシェル・ナボイ駅。移動の途中で、何度も天井を見上げた。
アリシェル・ナボイ駅。移動の途中で、何度も天井を見上げた。

タシュケントの地下鉄が開業したのは1977年。中央アジアで最初の地下鉄だった。ソ連時代につくられた公共空間の大きさに、この土地の装飾や文化が重なっている。

写真を撮っている僕の横を、人々が通り過ぎる。こちらが立ち止まる場所も、通勤や買い物で使う人にとってはいつもの駅なのだ。毎日通る場所に、これだけ手の込んだものがある。そのことが少しうらやましかった。

八十年後の異国で

日本人墓地を訪ね、その後、抑留者の歴史を伝える資料館へ向かった。

第二次世界大戦の終結後、ソ連軍に抑留された日本人のうち、約二万五千人が当時のウズベク共和国へ移送された。工場や発電所などの建設で強制労働に従事させられ、亡くなった人たちは、この国の各地に葬られた。

旅人として来た僕には、帰りの航空券がある。ここに連れてこられた人たちは、いつ帰れるかもわからなかった。同じ距離を隔てた土地にいても、その遠さはまるで違う。

タシュケントの日本人墓地。
タシュケントの日本人墓地。

資料館には、当時の写真や衣服、生活の記録が並んでいた。古い写真の中に、こちらを向いて立つ人がいる。説明の数字を追っているうちは捉えきれなかったことが、一人ひとりの姿を見ていると、少しずつ気になり始める。どこから来た人なのか。家族は帰りを待っていたのだろうか。

この資料館の歩みは、現地で資料や証言を集める人たちによって支えられてきた。抑留者がウズベクの人々に贈った手作りの品も、その交流を伝えている。

終戦から八十年。この年にここへ来られてよかったと思った。日本にいれば、遠い場所の出来事として読んでいたかもしれない。墓地を訪ね、写真の中の人たちを見ていると、終戦という言葉の後にも続いた時間のことが気になった。

その記録を残し、遠くから来た日本人にも伝えてくれる人がいる。ありがたかった。現地の人との交流も、帰国できずに働かされた事情も、どちらも忘れずに持ち帰りたいと思った。

抑留者の写真と生活の記録が並ぶ資料館。
抑留者の写真と生活の記録が並ぶ資料館。

青いドームの下には、まだ土があった

大きな青いドームの周りを、クレーンの腕が横切っていた。建物の前には土が盛られ、足元には工事の途中の地面が広がっている。

ハスト・イマーム地区に建設されていた、イスラム文明センターだ。中央アジアのイスラム文化や学問の歴史を伝えるための施設で、僕が訪れたときには、まだ工事が続いていた。

建設中だったイスラム文明センター。青いドームと工事現場が同じ景色に収まる。
建設中だったイスラム文明センター。青いドームと工事現場が同じ景色に収まる。

巨大な入口には、細かな幾何学模様と装飾が重なる。古い建築を訪ねるつもりで歩いていて、これから使われる建物の前に出た。歴史をどう残すかだけでなく、どう見せていくかも、この街では今まさに形になっている。

完成した姿はどんなものになるのだろう。そう考えながら、ドームとクレーンを一緒に写真に収めた。

アミール・ティムール広場の騎馬像

アミール・ティムール広場では、馬に乗ったティムールの像を見上げた。背後には大きなホテルが立ち、周りには緑がある。

ティムールは14世紀後半に大帝国を築き、サマルカンドを都とした人物だ。これから向かう街の建物にも、何度もその名が出てくる。タシュケントの中心でまず出会ったのが、その騎馬像だった。

アミール・ティムールの騎馬像と、背後に立つホテル・ウズベキスタン。
アミール・ティムールの騎馬像と、背後に立つホテル・ウズベキスタン。

ナボイ劇場——帰国を願い、誇りをかけて

ナボイ劇場の前で足を止めた。正面には連続するアーチがあり、近づくと、柱や天井の装飾が見えてくる。壁には、日本人がこの劇場の建設に携わったことを記す銘板があった。

資料館で見た人たちの歴史が、街の中の建物につながっていた。

ナボイ劇場。日本人抑留者も建設に携わった。
ナボイ劇場。日本人抑留者も建設に携わった。

劇場はソ連の建築家によって設計され、現地の職人たちも建設に携わった。戦後、その工事に加わったのが、ウズベキスタンへ移送された日本人抑留者たちだ。大工や電気工などの技術を持つ人も多く、1947年の完成に向けて働いた。

彼らを支えたのは、日本人として恥じるような仕事は残さないという誇りだったという。捕虜が造ったから手抜きなのだ、と後から言われるものにはしたくない。日本人として誇れる、最良の劇場を造りたい。帰れる日も見通せない場所で、それでも仕上がりを自分たちの問題として引き受けた。その意地の強さに驚く。

目指していたのは、劇場の完成だけではなかった。全員で生きて、健康な体で日本へ帰ること。隊を率いた永田行夫は、仕事の種類や達成量によって差がつく食事の配分を見直し、仲間に公平に行き渡るよう交渉したと伝えられている。一人ひとりの技術を生かして働くことと、仲間を置き去りにしないことが、同じ現場で結びついていた。

その働きぶりは、収容所の責任者や現地の人々の心も動かしていった。与えられた立場にかかわらず、身につけた技術に責任を持つ。今ならプロ意識と呼ぶのだろうが、この境遇でそれを守ることが、どれほど難しかったかと思う。

劇場の壁に残る、日本人の建設参加を記した銘板。
劇場の壁に残る、日本人の建設参加を記した銘板。

完成から十九年後の1966年、タシュケントは大地震に襲われた。市内の多くの建物が倒壊するなか、ナボイ劇場は地震に耐え、避難してきた人々を受け入れたという。日本人たちが携わった仕事は、舞台を支えるだけでなく、街の人の身を守る場所としても残った。

地震のときには日本人の造った建物へ逃げろ、と語り継がれるほど、その丈夫さは人々の記憶に刻まれた。もちろん、劇場は設計者や現地の職人たちとの共同の仕事だ。その中で日本人の働きが今も覚えられていることが、うれしかった。

銘板から目を上げ、もう一度建物を見た。帰りたいと願いながら、遠い土地にこれだけのものを残した人たちがいた。日本人として誇らしい気持ちと、ここで働かなければならなかった事情へのやりきれなさが、どちらもあった。

1945年に戦争は終わった。けれど、母国へ帰れず、生き延びるための別の闘いを続けた人たちがいた。戦争を起こしてはいけない理由として、こういう時間のことも覚えておきたい。建物だけを見ていたら通り過ぎていた壁の文字を、ここではゆっくり読んだ。

新しい街並みの、その前に

タシュケントは、思っていたよりずっと近代的だった。

広い道路、ガラス張りの高層建築、夜になると色が変わる建物の照明。大きな商業施設の前を歩いていると、シルクロードという言葉から想像していた街との違いに戸惑う。到着した晩に感じた、あのそわそわする華やかさが、夜になるとまた戻ってくる。

夜のタシュケント。商業施設と高層建築に明かりがともる。
夜のタシュケント。商業施設と高層建築に明かりがともる。

けれど、タシュケントそのものが新しい都市なのではない。二千年以上の歴史を持ち、古くはチャーチュと呼ばれた地域の交易や手工業の中心として発展した。1865年にロシア軍に征服され、ロシア帝国、そしてソ連の時代に都市の姿が変わっていく。1930年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都になった。

1966年の地震は、すでに進んでいた近代化をさらに加速させた。再建では広い公共空間や緑地、住宅が整備され、ソ連の都市計画と中央アジアの意匠が組み合わされた。その上に、独立後の開発が重なっている。

地下鉄の装飾も、広場の大きさも、夜のビルも、同じ時代につくられたわけではない。街が新しく見えるからといって、歴史が浅いわけではなかった。

古い都を見たいという気持ちが先に立って、この街で暮らしている人たちの今を、あまり考えていなかったのかもしれない。夜の通りを歩きながら、タシュケントの第一印象を少し訂正した。

街歩きの途中、ビールが飲みたくて、宿から六キロほど離れたJiguli Barまで足を延ばした。木のテーブルでジョッキを傾ける。うまい。わざわざ来た甲斐があった。遺跡や歴史を訪ねる旅にも、こういう時間は欲しくなる。

サマルカンドへ、寝台のある列車で

予約していたのは、乗るつもりだった高速列車ではなかった。

タシュケント南駅で乗り込んだ車両には、個室と寝台があった。サマルカンドまでは三時間五十分。切符を取るときに、どうやら列車を取り違えていたらしい。

向かい合わせの寝台を見ていると、これはこれで悪くない気がしてくる。たっぷり昼寝ができそうだ。

タシュケント南駅から乗った列車。
タシュケント南駅から乗った列車。
向かい合わせの寝台がある個室。
向かい合わせの寝台がある個室。

同室になったのは、ウズベキスタン人の男性だった。名前はアジズ。

「サマルカンドまで?」

「そう。もっと速い列車を予約したつもりだったんだけど」

話してみると、彼は教師だった。普段はタシュケントで働き、田舎で暮らす家族のもとへ帰る途中だという。

「仕事はタシュケントでしているんだ。今日は家族のところへ帰る」

彼はお茶を淹れてくれた。列車が駅に停まると、その駅のことを教えてくれる。窓の外には、乾いた丘や、木々のある集落が流れていた。僕が外を眺めていると、今度はその先に見えるものを説明してくれた。

日本から来たと伝えると、日本にも興味があると言ってくれた。観光客と同室になったことを面倒がる様子もなく、いろいろと気にかけてくれる。その親切がうれしかった。

列車の窓から見えた丘と集落。
列車の窓から見えた丘と集落。

彼にとっては家族のもとへ帰る道で、僕にとっては初めて見る土地だ。隣にこの国で暮らす人がいるだけで、窓の外の見方が変わる。列車の速さを気にしていたのは、乗り始めのうちだけだった。

サマルカンドに着く頃には、この車両を予約してよかったと思っていた。数日間この国で過ごして、親切な人に会うことが多い。彼との時間も、そう感じた場面の一つになった。

着いた街でバーに入ると、どこからか猫の鳴き声がした。見回した先、カウンター脇の壁の上に子猫がいた。今回の旅の最後の目的地、サマルカンド。到着した晩には、こんな小さな出来事もあった。

鳴き声のする方を見上げると、カウンター脇の壁の上に子猫がいた。
鳴き声のする方を見上げると、カウンター脇の壁の上に子猫がいた。

サマルカンドを歩く

サマルカンドは、ザラフシャン川流域のオアシスに育った都市だ。古代の市街地アフラシヤブにさかのぼる長い歴史があり、交易の道を通って、多くの人や文化が行き交った。13世紀にはモンゴル軍によって破壊され、14世紀後半、ティムールの都として再び大きく発展する。

タシュケントで感じた都市の大きさとは、また違う。こちらでは、建物の前に立つたびに、その大きさを体で測り直すことになった。

レギスタン広場——三つの学び舎に囲まれる

広場に向かって、三つの大きなマドラサが立っていた。マドラサはイスラムの教育施設だ。門の高さに目を奪われ、近づくと今度は、表面を埋める模様の細かさに驚く。

レギスタン広場を囲む三つのマドラサ。
レギスタン広場を囲む三つのマドラサ。

左側のウルグ・ベク・マドラサは15世紀の建物。向かいのシェルドル・マドラサと、正面のティラカリ・マドラサは17世紀につくられた。同じ広場に整然と並んでいるため、最初は一度につくられたもののように見えたが、およそ二百年の隔たりがある。

ティラカリに入ると、金色の装飾が頭上へ広がっていた。名前には「金で覆われた」という意味がある。外の青いタイルを見ていた目が、今度は室内の金色に慣れるまで、しばらくかかった。

ティラカリの金色の装飾。
ティラカリの金色の装飾。

ここが学びの場だったと知ると、建物の見方が変わる。この壮麗さの中で、かつては人が学び、議論していた。遠くから全体を眺めるだけではわからない、人の出入りする場所としての広さがあった。

朝のレギスタン——青とオレンジの間

翌朝、レギスタンへ戻った。朝の光を受けた建物にはオレンジ色が差し、タイルの青がその中に残っていた。

朝のレギスタン。青いタイルに暖かな光が重なる。
朝のレギスタン。青いタイルに暖かな光が重なる。

青い街と聞いて来たけれど、青だけで美しいわけではなかった。朝日のオレンジ色と重なる、その取り合わせがいい。同じ広場なのに、光が変わるだけでまた見ていたくなる。早く起きてよかった。

グーリ・アミール——ティムールの眠る場所

縦にひだの入った青いドームが見えてくる。グーリ・アミールは、ティムールとその一族の墓廟だ。タシュケントの広場では馬上にいた人物が、ここでは墓廟の中に眠っている。

グーリ・アミールの門の向こうに、青いドームが見える。
グーリ・アミールの門の向こうに、青いドームが見える。

内部には金色の装飾が重なり、その下に墓石が並ぶ。ティムールの名は、この街のいたるところに現れる。けれど、墓石を前にすると、帝国を築いた人物も一人の死者だったのだという、当たり前のことが気になった。

墓廟の内部。装飾の下に一族の墓石が並ぶ。
墓廟の内部。装飾の下に一族の墓石が並ぶ。

巨大な建物で権力を示し、その建物が死後も人を呼び続ける。ティムールの時代が終わってから、どれほど多くの人がここへ来たのだろう。僕もその一人として、ドームを見上げていた。

ウルグ・ベク天文台——空を測るための大きさ

ウルグ・ベクはティムールの孫で、統治者であり、天文学者でもあった。15世紀にサマルカンド郊外に天文台を築き、学者たちと観測を重ねた。その仕事は、千を超える星を記した星表にも残されている。

今も残る観測装置の一部は、地面の下へ深く延びていた。両脇に階段があり、石の曲線が奥へ続く。

ウルグ・ベク天文台に残る巨大な観測装置の一部。
ウルグ・ベク天文台に残る巨大な観測装置の一部。

遠くの星を測るために、地上にこれほど大きなものをつくる。望遠鏡のない時代の観測と聞いて、空を眺めるだけの姿を漠然と想像していたが、ここで見たものはずっと具体的だった。知りたいという気持ちを、石と寸法に置き換えたような大きさがある。

サマルカンドに残っているのは、権力や信仰のための建物だけではなかった。空を知るために費やされた時間にも、こうして触れられることが面白かった。

シャーヒ・ズィンダ——青い墓廟の間を歩く

通路の両側に、青いタイルで覆われた墓廟が続いていた。少し歩くたびに、入口の模様も、青の濃さも変わる。遠くから一つの色に見えたものが、近づくと細かく分かれていく。

シャーヒ・ズィンダの墓廟の間を通る道。
シャーヒ・ズィンダの墓廟の間を通る道。

シャーヒ・ズィンダは、預言者ムハンマドのいとこ、クサム・イブン・アッバースにまつわる信仰を中心に発展した霊廟群だ。現在目にする墓廟には、ティムール朝の時代につくられたものが多い。

サマルカンドブルー、恐るべし。そんな言葉が浮かぶほど、青の重なりに目を奪われた。

サマルカンドブルーという呼び名は、この街のドームや壁面を彩る青に結びついている。目の前にあるのは、緑がかった明るい青から、濃い藍色に近い青まで、いくつもの色だ。それが空の青とも重なって、サマルカンドを「青の都」と印象づけている。

では、どうしてこれほど青が多いのだろう。

この地域のイスラム建築では、青やターコイズは天や楽園を象徴する色として使われてきたという。礼拝する場所や死者の眠る場所を覆う青には、信仰にかかわる意味もあった。

その色を建物いっぱいに広げたのが、ペルシアから中央アジアへと続く、釉薬をかけたタイルの技術だった。ティムールは征服した各地から職人をサマルカンドに集め、壮大な建築を進めた。青を生み出す工芸の蓄積に、都を飾るための富と権力が重なり、モスクや墓廟の壁面、ドームにまで色鮮やかな装飾が施されていった。

青が多い背景に、祈りと職人の技術、そして帝国の建設がある。そのことを知ると、目の前の墓廟をもう少しゆっくり見たくなった。亡くなった人を葬る場所に、天や楽園を思わせる色を選ぶ。ここを訪れる人にとって、この青は僕が写真で見て憧れていた青より、ずっと切実なものなのかもしれない。

壁に近づけば、細かな模様とタイルの継ぎ目が見える。この小さな一片ずつを組み合わせて、あれほど大きな入口を覆っている。色の美しさに見とれていた目が、今度はそれをつくった手の仕事にも向いた。

墓廟の入口を覆う、色と凹凸の細かな装飾。
墓廟の入口を覆う、色と凹凸の細かな装飾。

ハズラティ・ヒズル——柱の間から街を見る

ハズラティ・ヒズル・モスクでは、木の柱に支えられた彩色の天井が印象に残った。現在の建物は19世紀に起源を持つ。ティムール朝の巨大な建築を巡ってきた目には、柱や軒下の距離が身近に感じられる。

ハズラティ・ヒズルの彩色された天井と木の柱。
ハズラティ・ヒズルの彩色された天井と木の柱。

柱の間から見ると、街の建物が少し低い位置に広がる。さっきまで間近で見上げていたドームが、今度は街並みの一部になっていた。一つずつ訪ねてきた場所が、ここでようやく同じ街の景色につながった。

ビビハニム・モスクとシヨブ・バザール

ビビハニム・モスクは、ティムールの命によって14世紀末から15世紀初めに建てられた大モスクだ。サマルカンドを帝国の都にふさわしいものにしようとした、その規模の大きさが伝わってくる。

建物が大きいと、装飾も遠くから見ることになる。細かな模様を追っていた目が、ここでは入口やドームの輪郭へ戻る。何を信じ、誰に見せるために、この大きさが必要だったのか。豪華だという感想の後に、そんなことが気になった。

すぐ近くのシヨブ・バザールでは、景色がぐっと近くなった。台の上にはトマトやスイカが積まれ、人がその間を行き来している。

シヨブ・バザールに積まれたスイカ。
シヨブ・バザールに積まれたスイカ。
赤いトマトが並ぶ市場の売り場。
赤いトマトが並ぶ市場の売り場。

さっきまで何百年も前の支配者のことを考えていたのに、ここでは目の前の食べ物に気持ちが向く。観光地を巡る途中で、市場に寄れてよかった。サマルカンドにも、今日の食卓のために買い物をする人たちがいる。

アフラシヤブ——青い都よりも古い街

アフラシヤブ博物館では、サマルカンドの時間がさらに遡る。ここに残る7世紀の壁画には、さまざまな装いの人々が描かれている。ティムールが現れるより、はるかに前の街の記憶だ。

アフラシヤブ博物館で見た壁画。
アフラシヤブ博物館で見た壁画。

サマルカンドは、ソグド人が交易で活躍した土地でもある。シルクロードという言葉を聞くと、地図の上の長い線を思い浮かべる。壁画を見ていると、その線を移動していたのは、服装も言葉も異なる人たちだったことが、ようやく具体的になる。

外には、起伏のある地面が広がっていた。古代の市街地があった場所だ。モンゴル軍の侵攻で破壊された街の跡を見渡しても、レギスタンのように建物が全体像を教えてくれるわけではない。

アフラシヤブの遺跡。古い市街地の跡が地面の起伏として残る。
アフラシヤブの遺跡。古い市街地の跡が地面の起伏として残る。

丘を見渡しながら、日本のことを考えた。モンゴル軍の侵攻が違う結末を迎えていたら、日本にもこんな景色が広がっていたのだろうか。歴史の説明から、いつの間にか、起こらなかったはずの日本の風景を想像していた。

もちろん、目の前の丘からその答えがわかるわけではない。ただ、遠い国の滅びた街を見ていたはずなのに、急に他人事ではなくなった。青いドームの美しさとは違うものが、ここを歩いた後には残った。

夜、もう一度レギスタンへ

日が落ちてから、再びレギスタンへ向かった。昼間はタイルの細部を追っていた建物が、夜には照明の中で大きな輪郭を見せている。広場には人が集まり、写真を撮ったり、立ち止まって眺めたりしていた。

夜のレギスタン広場。建物の前に人々が集まる。
夜のレギスタン広場。建物の前に人々が集まる。

タシュケントの地下鉄で見上げた天井。墓地と資料館。列車の窓の外を教えてくれたアジズ。サマルカンドの建物を見に来た旅で、建物以外のこともずいぶん覚えている。

明日はこの街を離れる。帰る前にもう一度見ておきたくて、広場にしばらく残った。

おすすめのレストラン

店名 特徴 お会計額
BOBOY Cafe(タシュケント) 肉と米を盛ったプロフに、サラダを合わせて食事ができる。ウズベク料理を試したいときに。 202,000 UZS/約2,343円
ジグリ・レストバー(タシュケント) 木のテーブルが並ぶビアレストラン。牛肉のシャシリクと生ビール。宿から足を延ばした甲斐があると感じた店。 236,000 UZS/約2,738円
SAMCRAFT(サマルカンド) ジャーキーなどのつまみとビールを組み合わせられる店。 65,000 UZS/約754円
BOBOY Cafeで食べたプロフ。
BOBOY Cafeで食べたプロフ。
ジグリ・レストバーでの食事。
ジグリ・レストバーでの食事。

Oasis Garden Restaurantでは、骨付きの肉と野菜を盛った一皿にビールを合わせた。木造風の外観が目印のレストランだった。

Oasis Garden Restaurantの肉料理。
Oasis Garden Restaurantの肉料理。

今回の宿

宿名 泊数 総額
NEST ONE studio(タシュケント) 2泊 予約総額 US$137.36/約20,244円(約1,745,000 UZS相当)
Continental Hotel Samarkand 2泊 2,440,000 UZS/約28,304円

日本円は2025年8月1日の参考レート、1 UZS=約0.0116円、1 USD=約147.38円で換算。NEST ONE studioのUZS表記は換算額。

Booking.comで空室・料金を確認できます(広告リンク)。

NEST ONE studioの空室・料金を見る

Continental Hotel Samarkandの空室・料金を見る

あとがき——ウズベキスタンを旅して

青い建築に惹かれて訪れたウズベキスタンで、同じくらい心に残ったのは、道中で親切にしてくれた人々だった。見知らぬ旅人を自然に気にかけてくれる。その温かさに、何度も気持ちがほぐれた。

日本人抑留者の歴史には、誇らしさとやりきれなさの両方を感じた。美しい建物も、その背景を知ると、ただ眺めていたときとは違って見える。

来る前は遠い国だったウズベキスタンを、今はずっと身近に感じている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました