石の輪郭がまっすぐではない。それなのに隣の石とぴたりと合っている。クスコで見たインカの石組みは遠くから眺めるより近くで見る方が不思議だった。どう加工すればここまで合わせられるのだろう。技術の高さに感服すると同時にこの街を築いた人たちのことをもっと知りたくなった。

クスコ:高地の谷に築かれたインカの都
ペルーに着いた最初の夜はリマで泊まり翌朝の便でクスコへ向かった。空港を出て街へ入ると斜面に家が重なっている。旧市街では細い道の先にも赤い屋根が続いていた。


クスコは標高約3,400メートルにある。僕はここで人生初の高山病になった。重いものではなかったが標高の高さは街の紹介に出てくる数字だけでは済まなかった。
それにしてもなぜこんな高い場所に大きな街を築いたのだろう。現地では海に近い側には砂漠があり背後にはさらに高い山があるため人々がこの谷にたどり着いたという話を聞いた。ここが作物を育てるのに最適な場所だったという説明だ。標高だけを見ると厳しい場所に思えるが暮らしを支える土地として見ると印象が変わる。
実際にクスコは川の流れる肥沃な谷にある。インカが突然何もない場所に都を造ったわけではなくインカ以前から長い間人々が暮らしてきた。周囲の農地を含めて考えると都の発展を支えたのは石造建築の技術だけではなかったのだと思う。
15世紀にパチャクティが街を再編しクスコは宗教と政治の役割を備えた帝国の都へ発展した。周囲には農業や手工業の区域もあったという。街を歩いて見える石壁や広場は大きな帝国の生活と統治を支えた都市の一部だった。
16世紀にスペイン人が征服すると街の基本的な構成を残しながらインカの建物の上に教会や邸宅が建てられた。石壁と教会が近くにあるのは偶然ではない。インカの都が別の支配の拠点へ変えられていった過程が今の街並みに残っている。
僕にはクスコはまず美しい街として目に入った。赤い屋根や広場の教会に見入った後で足元の石壁に目を戻すとその美しさの中に征服と支配の歴史もある。都市としてのクスコを知るほど景色を見る視点が増えていった。


コリカンチャ:太陽の神殿に重なる征服の歴史
アルマス広場からコリカンチャへ歩いた。広場の教会や回廊のある建物を見ているとクスコの街並みにはインカだけでは説明できない部分がある。スペインによる征服の後も街の基本的な構成や石の基礎が残りその上に教会や邸宅が建てられた。

コリカンチャは太陽神インティをまつったインカの重要な宗教施設だ。ケチュア語の「金」を意味するquriと「囲まれた場所」を意味するkanchaにつながる名で植民地期の記録には金の板で飾られた神殿の姿が残されている。今の石壁からは想像しにくいがかつては信仰と富が集まる場所だった。
正確な創建年には不明な部分があるものの15世紀のパチャクティによるクスコ再編の中で大きく整えられたとされる。太陽だけでなく月や星、雷などに関わる祭祀の空間もあった。太陽の神殿という一言の奥に空や自然をどう捉えていたのかというインカの世界観がある。
スペイン統治期にはその上にサント・ドミンゴの教会と修道院が建てられた。中庭の回廊とインカの石造部分が同じ建物の中にある。信仰の中心を別の宗教の建物で覆うという変化がここでは建築として残っている。
僕が感服した石の加工技術はここでも目を引く。金の装飾が失われても壁そのものの精密さは残った。路地で石の継ぎ目を見ていたときの驚きに加えてこの技術が帝国の信仰を支える建物に使われていたことが印象に残る。




サクサイワマン:巨石から考える帝国の力
街の中で石の継ぎ目を見ていた翌日はサクサイワマンへ向かった。クスコの北側の丘にある遺跡で巨大な石を組んだ壁が折れ曲がりながら続いている。街中では加工の細かさに目が向いたがここでは石の大きさにも驚かされた。
サクサイワマンは「要塞」と呼ばれることが多いが太陽をまつる場所でもあった。インカ時代のクスコにはハナン・クスコ(上クスコ)とウリン・クスコ(下クスコ)という二つの区分があった。地形だけでなく人々の所属や儀礼にも関わる区分だ。サクサイワマンはこのうちハナン・クスコの「太陽の家」と位置づけられている。一方でコリカンチャはウリン・クスコ側の重要な宗教施設だった。二つの太陽の神殿はクスコの都市構成とも結びついていた。
巨大な壁だけを見ていると防御のための建物に思えるが祭祀や水路、道とも結びついていた。クスコの都市を二つに分ける考え方と信仰の両方がこの丘にも関わっていたのだ。
大規模な建設はパチャクティの治世に始まったとされる。在位は一般に1438〜1471年頃とされるため15世紀の工事ということになる。その工事が後の支配者たちへ引き継がれた。正確な着工年までは分かっていない。一方で2024年に公表された発掘調査では一部区域にインカ以前のキルケ文化の利用も確認された。巨石建築が立つ前からこの丘には人々の活動があった。
植民地期には石の一部がクスコの教会や邸宅に再利用されたという。今見えている姿が当時の全体ではないと知ると残った壁の規模がいっそう気になる。これだけの石を運び一つずつ形を合わせていく。その仕事を続ける人手や組織まで考えると石の技術の高さが帝国の大きさにもつながって見えた。



周りには草地が広がり街の中とは違って空が大きく見える。サン・クリストバル周辺まで下るとクスコの赤い屋根が見渡せた。教会の塔と家々が斜面に沿って続く。石組みを見た後でもこの街ではつい街並みそのものに目が向いた。




クスコ:市場から夜の広場へ
昼間の市場を歩き夕方にはまた広場へ戻った。街歩きの合間に食べたペルー料理もおいしかった。店や料理の詳しい話はクスコで訪ねたレストランとバーの記事にまとめている。


空の明るい時間と灯りがついた後では同じ場所でもずいぶん違って見えた。夜にも広場へ足を運びたくなる街だった。


ケチュア語:帝国の時代を越えて続く言葉
クスコのバーではケチュア語の話も聞いた。街にこれだけインカの痕跡が残っていても言葉が次の世代へ伝わるかどうかは別の話なのだと思った。残る建物を見ているときとは違う寂しさがあった。
ケチュア語は一つの均一な言葉というより地域によって異なる言語変種を含む語族だ。インカ帝国より前から広がり帝国の時代には異なる言葉を話す人々を結ぶ共通語として使われた。インカだけのために生まれた言葉ではなかった。
スペイン統治期にも布教のために使われさらに定着した地域がある。征服された側の言葉が征服した側の宗教を伝えるためにも使われたという歴史はクスコの建物の重なりとはまた違う形で印象に残る。
ペルーの2017年国勢調査では約380万人が幼少期にケチュア語を身につけている。一方で地域の変種によっては継承が危ぶまれている。話す人が大勢いることとどの地域でも次の世代へ伝わることは同じではない。
石壁は目に見える形で残っているが言葉は使う人がいて初めて続いていく。バーで聞いた話に寂しさを覚えたのはその違いもあったのだと思う。クスコの歴史は遺跡の中だけにあるものではなく今の人たちの会話にもつながっていた。
次はクスコを離れてマチュピチュ村へ向かう。バスと鉄道を乗り継いでいく道中にも街の中とは違う景色が待っていた。
クスコ:宿泊の記録
| 宿名 | 泊数 | 宿泊総額 | 参考円 |
|---|---|---|---|
| El Mariscal Cusco | 3泊 | S/356.04 + US$44.51 | 約21,880円 |
マチュピチュ訪問前後の宿泊をまとめた計3泊。支払通貨は前半2泊がソル、後半1泊が米ドルだった。
おすすめレストラン情報はこちら参考円は旅行開始月末の2024年4月30日を共通基準にした。1ユーロ=168.27円、1米ドル=約157.00円、1ソル=約41.82円として計算し10円単位で四捨五入した。出典:フランス銀行・ペルー中央準備銀行。
ペルー:歴史と文化の参考資料
- UNESCO|City of Cuzco
- ペルー文化省|ケチュアの人々と言語
- PROMPERÚ|コリカンチャ
- クスコ文化局|サクサイワマン
- ペルー国立図書館|ハナンとウリンの都市・儀礼区分
- ペルー文化省|サクサイワマン管理計画2024–2030
- クスコ文化局|パチャクティの年代
- クスコ文化局|2024年の発掘調査
ペルー:訪問地と移動の地図
写真の位置情報で確認した訪問地と移動手段。
訪問地を選ぶ
| 順序 | 区間 | 移動手段 |
|---|---|---|
| 1 | リマ → クスコ | 航空便 |
| 2 | クスコ市内・周辺 | 街歩き。市内車移動は領収書のある区間を別管理 |
| 3 | クスコ → オリャンタイタンボ | Inca Rail接続バス |
| 4 | オリャンタイタンボ → マチュピチュ村 | Inca Rail鉄道 |
| 5 | マチュピチュ村 ⇄ 遺跡 | Consetturバス |
| 6 | 村 → オリャンタイタンボ → クスコ | 鉄道+バス |
| 7 | クスコ → リマ | 航空便 |
| 8 | リマ → パルパ → ナスカ → ワカチナ → リマ | ツアー車両 |
| 9 | ナスカ周辺 | 小型機の遊覧飛行 |
| 10 | ワカチナ砂丘 | バギー |
移動の通過点と撮影地点を確認できても、全区間の連続した走行記録ではない。未確認の道路線は描いていない。航空便も実際の飛行軌跡を示すものではない。



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