水鏡に映る、夏のボルドー
2024年7月、夏のボルドーに来た。きっかけは、パリ五輪のサッカー男子日本代表の初戦だった。大会名にはパリと付くけれど、僕が向かったのはフランス南西部。ワインの産地として知っていた街に、今回はサッカーを見に来た。試合の前後には、その街を歩いた。
ブルス広場に出ると、石造りの建物が左右に広がっていた。夏の日差しの下で、建物の輪郭が浅い水面にもう一組映っている。ミロワール・ドー、水の鏡。水の上では子どもたちが遊び、その間を人が歩いていた。大きな建物の正面が、そのまま人の遊び場に向いているのがいい。
古い広場と一体に見える水鏡は、実は2006年にできたものだ。18世紀の建物に対して、こちらは現代の公共空間。大きな水盤に薄く張られた水が鏡になり、霧が出ると、その像がぼやける。昼の写真には水面と人の影が残り、夜の写真には、霧の向こうに照らされた建物が残った。
向こう側のブルス広場は、もとは王の権威を示す「王の広場」だった。18世紀、城壁に閉じられていた街を川へ開く都市改造の中で整えられたという。中央にあった王の騎馬像は失われ、今の三美神の噴水が置かれたのは1869年。広場ひとつにも、王の時代、革命、その後の時代が重なっている。
ボルドーは海辺にあるわけではない。街の前を流れるのはガロンヌ川だ。それでも、この街を理解するには港の存在が欠かせない。川が大きく湾曲する形から、「月の港」と呼ばれてきた。ワインの名で知っていたボルドーは、川を通じて外の世界とつながる交易都市でもあった。
2007年に世界遺産となった「ボルドー、月の港」は、ひとつの建物だけを指す名前ではない。長い交易の歴史と、18世紀以降の都市計画がつくった歴史地区のまとまりが評価されている。ブルス広場から大劇場へ歩くときの、建物と通りが連続する眺めにも、その説明が重なる。
ただ、街の繁栄をワインの話だけで片付けることはできない。アキテーヌ博物館の解説を読むと、18世紀の都市改造を支えた富は、植民地のプランテーションや奴隷貿易を含む大西洋交易と結び付いていたことが分かる。整った建物の眺めにも、その成り立ちがある。旅の写真を見返すときには、そこまで含めて、この広場を見たい。
古いものを大切にするというと、触れずに眺める姿を思い浮かべる。でも、水鏡のまわりでは、歴史ある建物の前で子どもが遊び、大人が立ち止まっている。近代につくられた水盤が、古い広場と今の暮らしをつないでいた。僕がこの場所へ何度も戻ったのは、建物の形だけでなく、その使われ方も見ていたかったからだ。
門の向こうに、違う時代の街が続く
川沿いの開けた眺めから旧市街へ入ると、通りの幅が変わる。建物が近づき、窓や看板、その先に見える塔が目に入る。広場で建物全体を眺めていたときより、今度はひとつずつ細部を拾いながら歩くことになる。
サン=ピエール教会の前も、そうした小さな広場だった。中へ入ると、高い天井の下に椅子が並び、奥のステンドグラスから色のある光が入っていた。この地区には古い内港の入口があったという。今は細い路地に囲まれた場所に、かつて船や荷物が出入りしていたと知ると、川との距離の見え方が変わる。
グロス・クロッシュでは、路地の奥に大きな鐘楼が現れた。二本の塔の間に時計と鐘があり、その下を人が通っていく。現在の鐘は1775年に鋳造され、「アルマンド=ルイーズ」という名前が付いている。重さは7,750キロ。名前を持った約7.8トンの鐘が、あの塔の中にある。見上げたときのかわいらしい輪郭と、その重さの落差が面白い。
門は防御施設であり、牢獄としても使われていた。時間を知らせ、人を守り、ときには人を閉じ込める。街の象徴になった建物が、昔はずいぶん具体的な仕事を担っていたことになる。下を通る人々を見ていると、記念物としてだけでなく、街の中の通り道として残っていることにも目が向く。
別の朝には、カイヨー門の前にも立った。とがった屋根と細い塔が重なり、門の両側には普通に家が続いている。15世紀末にさかのぼるこの門も、もとは城壁の一部だった。今はその手前にも向こうにも道が続いていて、生活の通路として残っている。門だけを切り離して見るより、前後の通りと一緒に眺める方が、この街らしい。
ヴィクトワール広場のアキテーヌ門まで歩くと、同じ「門」でも印象が違う。屋根の尖ったカイヨー門や鐘を掲げたグロス・クロッシュに対し、こちらは大きなアーチと三角形の破風が目立つ。短い滞在の中で、街の入口だったものをいくつも見た。そのたび、ボルドーを一枚の均一な古い街として見るのが難しくなる。
大劇場の列柱から、木陰のある場所へ
大劇場の前では、列柱がつくる正面の眺めを見た。柱の上には彫像が並び、広場から建物までの見通しがいい。設計はヴィクトル・ルイ、開場は1780年。旧市街の路地で建物の隙間から塔を探していたのとは、ずいぶん違う見方になる。
その近くのギャルリー・ボルドレーズには、ガラスの屋根の下に通路が延びていた。屋外の広場、建物に挟まれた路地、屋根のある通り。少し歩くだけで、頭の上の空間が変わる。足元から遠くまで視線が抜ける写真を何枚も撮っていたのは、そうした違いを見ていたからかもしれない。
パルルマン広場では噴水を囲んで店の席が並び、カンコンス広場では木々がまっすぐ奥へ続いていた。石の壁が迫る路地から、木々の間を遠くまで見通せる場所へ出ると、同じ街を歩いていても視線の置き方が変わる。さらにジャルダン・ピュブリックへ足を延ばした。
この庭園がつくられたのは18世紀半ば。もとは質のよくないブドウ畑だった土地を、裕福な市民が散歩し、人と会うための場所へ変えたのだという。最初は幾何学的なフランス式の庭園で、19世紀にイギリス式の風景庭園へ改められた。木陰を歩いていた場所にも、商業都市の豊かさや、人が集まる場をつくろうとした考えが残っている。
ボルドーの写真には、建物だけを撮ったものと、人が使っている場所を撮ったものが交じっている。水鏡の子どもたち、噴水のまわりの席、門の下を行き来する人。歴史地区を歩いていたつもりでも、目に残ったのは、そこが今も普通に使われている様子だった。
カヌレの袋にも、ボルドーの名前
街歩きの途中には、ラ・トック・キュイヴレのカヌレもあった。ショーケースには、溝の入った小さな焼き菓子がいくつも並んでいる。手に持った袋には「Canelés de Bordeaux」。ワインの街の名前が、こちらではお菓子の袋に付いていた。
カヌレには、修道女がつくり始めたという話や、ワインの澱を取り除くために卵白を使い、余った卵黄を菓子にしたという話がある。ただ、いずれも確かな起源として裏付けられたものではない。地元のヌーヴェル=アキテーヌ地域圏の解説も、伝説と確認できる歴史を分けている。街とのつながりをうまく説明する話だからこそ、広まったのかもしれない。
面白いのは、フランス語のつづりにも話があることだ。「cannelé」のnをひとつ減らした「canelé」は、1985年にボルドーのカヌレの同業団体が商標として用いた表記。両方のつづりを見かけるのには、そういう経緯もある。見慣れた小さなお菓子にも、後から街の名物になっていく歴史があった。
バーのマダムから、Boboという言葉を知る
ボルドーでは、バーで席の近かったマダムと話す機会があった。そこで知ったのが、Boboという言葉だ。Bourgeois-Bohème、ブルジョワ・ボエーム。そういうライフスタイルが流行っているのだと教わった。
経済的なゆとりがありながら、自由な感性や、自分なりの暮らし方も大切にする。言葉の意味を確かめると、豊かさと、本物らしさや創造性を求める姿勢が一緒に入っている。ブルジョワとボヘミアン。二つをつないだ短い呼び名に、暮らし方をめぐる話が詰まっている。
その日はマダムにご馳走になった。僕は日本代表の試合を見るために来て、広場や門を歩いていた。その旅の途中で、建物の歴史とは違う、今の暮らし方の話を聞いている。観光で来た街で、そういう話ができたことを覚えておきたい。
豊かさがあり、好きなものを選ぶ自由もある。その二つを、どんなふうに一緒に持つのか。Boboという言葉からは、そんな問いも浮かぶ。歴史を調べると商人たちの富に行き着く街で、暮らし方をめぐる話を聞いたことも面白かった。整った石造りの街並みの印象に、マダムとの時間が重なっている。
ジダンのいた街で、日本代表の初戦を見る
スタジアムへ向かうと、街歩きの写真から場面ががらりと変わる。白い柱が並ぶ外観、青いユニフォーム、広げられた応援旗。建物の中へ入ると、客席の先にピッチが開けた。今回、僕がこの街に来た理由が、そこにあった。
試合当日、FC Girondins de Bordeauxの経営破綻のニュースを目にした。若き日のジネディーヌ・ジダンが活躍した、あのボルドーだ。そのクラブがなくなるのか。驚きと、少し悲しみにも似た感情を抱いた。これから日本代表の試合を見る街で、地元の名門が存続を危ぶまれている。楽しみにしていた観戦に、思いがけない重さが加わった。
ジダンがプロとしてのキャリアを始めたのはカンヌで、ボルドーへ移ったのは1992年。ユヴェントスやレアル・マドリードへ進む前に過ごした街が、ここだった。彼の名前を通して知っていたクラブが、旅先で突然、目の前の問題になった。
クラブの公式声明によれば、破産申請は試合の前日で、声明の公表はその翌日。再建とプロ資格の問題を説明する内容で、クラブそのものの消滅を告げたものではない。それでも、ニュースを見たときの「あのクラブが」という気持ちは残っている。
日本はパラグアイに五対〇で勝った。前半に先制し、相手が退場者を出すと、後半に得点を重ねた。写真の電光掲示板にも、五と〇が残っている。パリ五輪の男子日本代表は、このボルドーで初戦を大勝で終えた。
一方で、同じ街のクラブは経営危機の中にあった。日本代表を見るために来た僕にとって、スタジアムは二つのサッカーの話が重なる場所になった。世界の大会を迎える立派な会場があることと、そこを本拠地とするクラブが続いていけることは、別の問題なのだ。
試合後、スタジアム近くの湖の水面に、低くなった太陽が映っていた。自転車で通る人もいる。そこから街の中心へ戻ると、ブルス広場にはまだ人の姿があり、やがて建物と噴水に灯りがともった。
サッカーの試合をひとつ見るために来た街に、水鏡と石の門、マダムとの会話が加わった。帰る朝にも、ブルス広場とカイヨー門の写真を撮っている。ボルドーの旅は、試合の結果だけでは終わらなかった。
この旅で訪ねた場所
おすすめのレストランと、旅の食卓
ル・ブション・ボルドレでは、黒板にその日の料理が並んでいた。夏野菜のスープと、卵をのせたトーストなどを盛った皿。写真に残っているボトルは、シャトー・ラリュー=テールフォールのオー・メドック、2019年だ。石の壁、木のテーブル、手書きの黒板が近い小さな店だった。
観戦後には、旧市街へ戻り、コパン・コム・カナール・ボルドー・サン=ピエール(Copain Comme Canard Bordeaux Saint-Pierre)で夕食を取った。焼いた肉を切り分け、じゃがいもや野菜を添えた一皿。まだ明るかったスタジアムから、湖の夕日、街の灯り、そして食卓へ。試合の前後にも、ボルドーで過ごした時間が続いていた。
| 店名・食事の記録 | おすすめポイント |
|---|---|
| ル・ブション・ボルドレ Le Bouchon Bordelais | 旧市街の街歩きと合わせて、ワインと料理をゆっくり楽しみたいときに。手書きの黒板から、その日の食べたいものを選べる。僕が選んだ夏野菜のスープと、卵のトーストなどを盛った皿なら、いくつかの料理を少しずつ楽しめる。 |
| コパン・コム・カナール・ボルドー・サン=ピエール Copain Comme Canard Bordeaux Saint-Pierre | サン=ピエール地区で夕食を取りたいときに。僕は日本代表の試合を見たあとに立ち寄り、肉とじゃがいも、野菜を盛った一皿を食べた。旧市街で観戦後の余韻を楽しみながら食事をする、という過ごし方にも合う。 |
| ラ・トック・キュイヴレ La Toque Cuivrée | 街歩きの合間に、ボルドーらしいお菓子を探すなら。ショーケースでカヌレを見比べて選べるので、散策中に立ち寄る一店として。 |
今回お世話になった宿
泊まったのは、中心部のオテル・デュ・テアトル。大劇場に近いメゾン・ドレ通りにあり、ブルス広場や旧市街を歩く拠点になった。部屋はスモール・ダブルルームで、食事なしの予約だった。
| 宿名 | 泊数 | 総額 |
|---|---|---|
| Hôtel du Théâtre – Hypercentre | 2泊 | €190.80 参考:約31,050円 |
参考円額は2024年7月31日のECB公表レート、1EUR=162.76円で換算。
所在地:10, Rue de la Maison Daurade, Bordeaux。ホテルの施設情報
参考資料
- 日本対パラグアイの試合結果(Jリーグ公式)
- クラブの破産申請と再建に関する声明(2024年7月25日)
- ジダンのボルドー時代(クラブ公式)
- ジダンのカンヌでのプロデビュー(AS Cannes公式)
- Bordeaux, Port of the Moon(UNESCO)
- ミロワール・ドー(ボルドー観光局)
- 世界遺産地区の街歩き・ブルス広場と水鏡(ボルドー観光局)
- 18世紀ボルドーの大西洋交易と奴隷制(アキテーヌ博物館)
- 旧市街とサン=ピエール地区(ボルドー観光局)
- グロス・クロッシュ(ボルドー観光局)
- カイヨー門(ボルドー観光局)
- 大劇場(ボルドー観光局)
- Boboの語義(Le Robert)
- ル・ブション・ボルドレ公式
- ブルス広場と三美神の噴水(ボルドー観光局)
- ジャルダン・ピュブリックの歴史(アキテーヌ博物館)
- カヌレの起源とつづり(ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏)
- ラ・トック・キュイヴレ(ボルドー観光局)
- ホテル施設情報(Booking.com)
- 2024年7月31日 ECB日次為替参考レート(スロバキア国立銀行)

































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