三歩歩けば、メッシかマラドーナにぶつかる
三歩歩けば、メッシかマラドーナにぶつかる。ブエノスアイレスは、そんな街だった。店先にも、路地の壁にも、二人がいる。サッカーを見に行かなくても、サッカーの方からこちらへやってくる。
ところが、僕が着いた頃、この街が見送っていたのはもう一人のアルゼンチン人だった。南米初のローマ法王、フランシスコ。バチカンで葬儀が営まれる時期、故郷のブエノスアイレスでも、あちこちで追悼の集まりが開かれていた。
広場に置かれた大きな画面。大聖堂の前に集まった人々。旅先で目にする人混みは、いつもなら街の賑わいとして眺めてしまう。けれど、このときは少し違った。
僕はNetflixの『2人のローマ教皇』を見ていた。ベネディクト16世と、後にフランシスコとなるベルゴリオを描いた映画だ。歴史をすべて知っていたわけではない。それでも、映画を通じてその人の歩みに触れていたから、法王という遠い肩書の向こうに、一人の人間を感じていた。
フランシスコはこの街に生まれ、法王になる前にはブエノスアイレスの大司教を務めていた。映画の中で知った人物が、実際に暮らしていた街に僕はいま立っている。画面の中の話が、目の前の広場につながった。街の人たちが悲しむ気持ちも、少しわかるような気がした。





大通りを曲がると、港町の時間が残っている
夜の大通りに立つオベリスクは、遠くからでも目に入る。明かりのついた建物が並び、昼に歩けば、その壁の装飾や窓の形が見えてくる。大きな通りを眺めていたかと思えば、少し歩いた先では古い建物に囲まれる。ブエノスアイレスは、歩く場所によって表情が変わった。
この街には、二度の建設の歴史がある。スペイン人による最初の入植は1536年。一度は定着に失敗し、1580年にフアン・デ・ガライによって再び街が築かれた。ラプラタ川から大西洋へつながる港の位置が、その後の街の成長を支えた。
ヨーロッパなどから来た移民たちが、この港を通って街に加わっていった。中心部の建物と、ボカの色鮮やかな家並みが同じ街にあるのも、その歴史を知ると少し見え方が変わる。海の向こうから来た人たちが、それぞれの暮らしを持ち込んだ街なのだ。
サンテルモでは、市場の中に店が連なり、その外には古い通りが続いていた。街の大きさを感じる大通りもいいが、こういう場所を歩くと、建物の中で続いてきた暮らしの方が気になってくる。カフェの木の内装や、市場に並ぶ品物。その細部まで含めて、僕の見たブエノスアイレスだった。





青と黄色のスタンドに、港の歴史が詰まっていた
ボカのスタジアム、ラ・ボンボネーラでは、青と黄色が視界を占める。何度も写真で見てきた色なのに、実際のスタンドを前にすると、やはり気分が上がった。ここで試合が始まったらどうなるのだろう。サッカー好きなら、どうしても考えてしまう。
ボカ・ジュニアーズが生まれたのは1905年。港の地区ラ・ボカで、イタリア系の若者たちがクラブをつくった。青と黄色を選んだ理由にも、港らしい話がある。クラブの公式史によれば、港で働いていたフアン・ブリチェットがスウェーデン船を見て、その旗の色を提案したという。
遠くの国から来た船の色が、この街のサッカーの色になった。そう知ると、青と黄色のスタンドが、港町の歴史まで背負っているように見えてくる。大きなクラブの始まりに、移民の若者と一隻の船がいる。その距離の縮まり方がおもしろい。
1940年に開かれたラ・ボンボネーラは、今もボカの本拠地だ。博物館とスタジアムを見てから周辺を歩くと、クラブの色もマラドーナの姿も、競技場の外にそのまま続いていた。カミニートの赤や緑の壁にも、サッカーの絵がいる。スタジアムだけを見て帰るには、惜しい街だった。
滞在中には、ボカとリーベルのスーペルクラシコがあった。現地で試合を見られなかったのは残念だったが、街中のテレビで放送されていた。壁には選手がいて、テレビには試合がある。これだけ日常の中にサッカーがある国なら、ワールドカップで優勝するのも、なんだかわかる気がした。
ただ、僕が見た放送はなかなか手強かった。一つのチャンネルは監督ばかり映し、もう一つはスーペルクラシコの実況に別のハイライト映像が重なる。街じゅうにサッカーがあるのに、いま見たいプレーが見られない。そのもどかしさまで、この街でのサッカーの記憶になった。






エビータの名前と、石の家
メッシとマラドーナに並ぶほど、街で存在の大きさを感じた人がいた。エバ・ペロン。エビータと呼ばれる人だ。正直、ブエノスアイレスに来るまで僕は彼女のことを知らなかった。
それが、ビルの大きな肖像や、あちこちにある名前を見ているうちに、知らないままでは通り過ぎられなくなった。旅行前に覚えた観光地の名前より、歩いている途中で何度も出会う名前の方が、気になることがある。エビータは、僕にとってそんな人だった。
フアン・ペロン大統領の妻だった彼女は、財団を通じて病院や学校をつくり、奨学金や住宅の支援にも取り組んだ。貧しい人々を支える活動と、女性参政権の実現に果たした役割が、いまも語られている。単に大統領夫人だったから、この街に名前が残っているわけではなかった。
レコレータ墓地で見た彼女の墓は、家のような大きさだった。貧しい人々を助けてきた人が、こんな大きな墓に入っている。僕には、それが少し皮肉に感じられた。支援の仕事を知ったことと、目の前の墓を見たこと。その二つが、すんなりとは重ならなかった。
劇場の席に、本棚が入っていた
エル・アテネオ・グランド・スプレンディッドでは、まず上を見てしまう。ドーム天井に絵があり、その下をバルコニーが囲んでいる。そして、客席があるはずの場所に本棚が並んでいる。これが本屋なのか。
1919年に開かれた劇場は、映画館としても使われ、2000年に書店になった。天井も、バルコニーも、舞台の名残も、そのまま本を探す空間の一部になっている。古い建物を保存するという言葉から想像するより、ずっと普通に、本屋として使われていた。
どんな打ち合わせをすれば、「劇場を本屋にしようぜ」という話になるのだろう。僕はそこがおもしろかった。立派な空間を前にして感心するだけではなく、その場所の次の使い道を考えた人たちの発想が気になる。
港に来た船がクラブの色になり、劇場には本棚が入る。ブエノスアイレスを歩いていると、見えている景色に、思いがけない前の話がついていた。背景を知ってからもう一度眺める。その繰り返しが、この街では楽しかった。


川を渡り、さらに南へ
ブエノスアイレスからは、ラプラタ川を渡ってウルグアイのコロニア・デル・サクラメントへも日帰りした。船から見える川の広さに、本当に世界は広いと思った。コロニアでの街歩きは、別の旅行記で案内する。
街角のメッシとマラドーナ。法王を偲ぶ人々。歩くうちに初めて知ったエビータ。五泊のあいだに、アルゼンチンの人たちが大切にしているものを、少しずつ見せてもらったような気がする。
けれど、この大きな街がアルゼンチンのすべてではない。次は南へ飛び、パタゴニアのエルカラファテへ向かう。ブエノスアイレスの街並みの続きを探すつもりで機窓を見ると、まるで違う国土が広がっていた。


おすすめのレストラン
| 店名 | 特徴 | お会計 |
|---|---|---|
| Don Julio | オホ・デ・ビフェにグラスワインを合わせた。ブエノスアイレスで訪れたパリージャ。 | ARS 118,700(約14,470円) |
| Café Tortoni | 紅茶とチュロス、トーストしたサンドイッチを頼んだ。木の内装に囲まれて、街歩きの合間にひと息ついたカフェ。 | ARS 17,000(約2,070円) |


泊まった宿
| 宿名 | 泊数 | 総額 |
|---|---|---|
| Broadway Hotel & Suites | 5泊 | 予約総額 USD 373.50(約53,430円) |
ジュニア・ダブルスイート、食事なし。宿泊分の現地カード支払はARS 444,465(約54,180円)。都市税ARS 8,850(約1,080円)とランドリーARS 65,200(約7,950円)は別明細。円額は参考換算。
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参考資料
円額は2025年4月30日の参考レートで換算し、10円単位に丸めた目安。ARSは1ペソ=0.1219円(ValutaFX)、USD・EURはECB公表値を使用。実際のカード請求額とは異なる。



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