マチュピチュ旅行記:アンデスの峰に隠れたインカの街

中南米

旅の時期:2024年4〜5月

麓からは見えなかった街が山の峰と雲の間に広がっていた。マチュピチュの段々畑と石造りの建物を見渡すとこの場所を選び街を築いた人たちの想像力に感服した。周囲の山まで含めた景色は写真だけでは伝わらない。ここまで来て見られたことがうれしかった。

山に囲まれたマチュピチュの遺跡全景
建物だけでなく周囲の峰まで含めて印象に残る景色。

オリャンタイタンボ:谷の要衝から鉄道の旅へ

遺跡を訪ねる前日はクスコからバスに乗った。行き先はオリャンタイタンボ。窓の外には畑や山が続きときどき家々が見えた。クスコの路地を歩いていたときとは景色の広がり方が違う。

クスコからオリャンタイタンボへ向かう車窓の畑
クスコからオリャンタイタンボまでは接続バスを利用した。

乗り換えたオリャンタイタンボもインカ時代の都市だ。クスコから森林地帯へ抜ける道の要衝にあり宮殿や祭祀施設、農地、倉庫などを組み合わせた計画都市だった。クスコの文化行政機関によると建設者については年代記の記述にも違いがある。それだけ長い歴史のある場所を今回の僕は列車への乗換地点として通った。

町にはインカ時代の街路や水路が残り今も人が暮らしている。スペインによる征服期にはマンコ・インカの抵抗の拠点にもなった。クスコで見た征服の歴史がこの谷にも続いていたのだ。今回は遺跡の内部を見学していないが駅へ向かう場所もインカの都市だったと知るとこの移動を一本の線だけでは捉えられなくなる。

オリャンタイタンボの駅前
この旅では遺跡の内部へは入らず鉄道へ乗り換えた。

オリャンタイタンボからはインカレールに乗り換える。利用したのはTHE VOYAGERのバスと鉄道を組み合わせたサービスだった。車内に入ると側面だけでなく頭上にも窓がある。

頭上にも窓のあるインカレールTHE VOYAGERの車内
THE VOYAGERは頭上にも窓がある。

この車窓は最高に美しかった。山に挟まれた谷や川、その脇に見える畑。進むにつれて緑が深くなり山が近づいてくる。マチュピチュに着くための移動なのにその途中の景色だけでも十分に記憶に残っている。

インカレールの車窓から見る山と谷の畑
高原から川沿いへ車窓が変わっていく。

集合場所や乗り換え、座席についてはインカレール乗車記にまとめている。ここでは窓の外を見ていた時間のことを書いておきたい。列車に乗って行くこと自体がこの旅の楽しみの一つになった。

マチュピチュ村:温泉街を思わせる山あいの町

マチュピチュ村に着くと建物のすぐ近くまで山が迫っていた。線路沿いには店が並んでいる。狭い範囲に宿や飲食店が集まる佇まいが僕には日本の温泉街を思わせた。

マチュピチュ村の線路沿いに並ぶ店と背後の山
線路のすぐそばに宿や飲食店が集まっている。
マチュピチュ駅の案内表示
ここで列車を降りて村で一泊した。
山に囲まれたマチュピチュ村
クスコとは山の近さも街の佇まいも違う。
町中へ続く線路と背後の山
列車で到着した先にも線路沿いの町が続く。

この街の発展には日本人も関わっていたという。調べると福島県大玉村出身の野内与吉がここでホテルを開き発電所の整備などに携わり村長も務めていた。在ペルー日本大使館や大玉村の資料に残る話だ。温泉街に似ていると感じたことと街の歴史がそのまま同じ理由というわけではない。それでもペルーの山の中で日本とのつながりを知るのは面白かった。

昼には食事を取り夜にも村を歩いた。線路のそばに灯りがつき店が開いている。翌朝にはこの村からさらに山を上っていく。

店の灯りが線路を照らす夜のマチュピチュ村
翌朝の遺跡訪問に備えてこの村に泊まった。

マチュピチュ:山の形と一体になった都市

予約した入場時間は朝7時だった。村から遺跡へはバスを利用した。朝の山にはまだ雲がかかっていて緑の斜面の間から光が差していた。

朝の雲と光に包まれたマチュピチュの山
朝の山にはまだ雲が残っていた。
マチュピチュの草地と段々畑
段々畑も山の斜面を都市に変える仕組みの一部。

建物を近くから見ると石の壁だけでなく階段や段々畑が連なっている。離れて見た全景の中を今度は自分が歩いている。山の形に沿ってこれほどの空間を組み立てたことが見れば見るほど不思議だった。

石壁の向こうに山がそびえるマチュピチュの通路
全景で見た街の中を今度は歩いていく。
マチュピチュの建物を支える石積み
建物を近くから見ると石積みの違いも目に入る。
マチュピチュの建物内に連なる壁
壁の間を進むと建物の配置を近くから確かめられる。

マチュピチュは15世紀に造られたインカの都市遺跡で標高は約2,430メートル。クスコより低い場所にあるが深い谷と切り立った峰に囲まれるため景観の印象は大きく違う。アンデスの高地とアマゾン流域の森が接する場所にあり車窓で緑が深くなっていったこともこの地形につながっている。

およそ200の構造物があり居住の区域と農業の区域が分けられている。段々畑や階段、水路を含めて計画された都市だった。石造りの建物だけでなく斜面そのものを使い暮らせる空間を組み立てている。僕が驚いたのはその発想と技術だった。

どのような役割の都市だったのかには未解明の部分が残る。宗教儀礼や天文、農業との関わりが考えられているがすべてを一つの用途で説明することはできない。何も分かっていない場所というより細かな仕組みが見えてきても全体にはまだ問いが残る場所なのだと思う。

世界的に知られるきっかけはハイラム・ビンガムが訪れた1911年だった。ビンガムはアメリカの歴史学者でイェール大学でラテンアメリカ史を教えていた人物だ。インカ最後の拠点を探す探検隊を率いてペルーを訪れた。ただし彼が誰も知らない街を初めて発見したわけではない。遺跡を知る地元の人の案内があった。麓から姿が見えないことと長い間誰一人その存在を知らなかったことは別だ。

山に合わせて曲がる段々畑や並ぶ石壁を見ていると自然の景色と建物を切り離せない。街だけを平らな土地へ移したら同じ印象にはならないだろう。この地形を選びそこに街を成立させたことがマチュピチュの景観のすごさなのだと思った。

斜面に沿って並ぶマチュピチュの石造建築
地形に合わせた建物の並びが今も残る。
マチュピチュの建物内部の壁と空
空に向かって開けた遺構の中にも入った。
マチュピチュの段々畑とワイナピチュ
居住区と農業の区域を組み合わせた都市だった。
マチュピチュで見た屋根の内側
屋根のある場所から建物の構造を見上げる。
マチュピチュの斜面を支える段々の石壁
石壁は斜面を段状に支えている。

クスコでは石の加工の精密さに驚いた。ここではそれに加えて山の上に街を造るという発想そのものに驚かされた。麓にいるだけでは見えない場所にこれだけのものがある。実際に来てよかったと強く思った。

クスコ:谷をたどる帰路

見学を終えると村へ戻り再び鉄道に乗った。川と山の間を通り抜けてオリャンタイタンボへ。そこからバスでクスコへ戻った。行きに見た谷の景色が帰りにも続いていた。

帰りのインカレールから見た川沿いの谷
見学後は鉄道とバスでクスコへ戻った。

次は飛行機でリマへ戻る。石造りの街と緑の山を見ていた旅は砂漠と地上絵へ続いていく。

マチュピチュ村:宿泊と食事の記録

宿名泊数宿泊総額参考円
Rockrivers Plaza MachuPicchu1泊US$53.91約8,460円

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Booking.comRockrivers Plaza MachuPicchu空室・料金を見る →
店名おすすめお会計額参考円
Pueblo Viejoペルー料理S/103.00約4,310円
Cheff Houseペルー料理S/94.00約3,930円

クスコからの鉄道と接続バスについてはインカレール乗車記へ。

参考円は旅行開始月末の2024年4月30日を共通基準にした。1ユーロ=168.27円、1米ドル=約157.00円、1ソル=約41.82円として計算し10円単位で四捨五入した。出典:フランス銀行・ペルー中央準備銀行。

ペルー:歴史と文化の参考資料

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ペルー:訪問地と移動の地図

写真の位置情報で確認した訪問地と移動手段。

北 ↑ 訪問地域の位置関係概略位置図。道路・鉄道の実際の線形は表していない。リマクスコマチュピチュ遺跡ナスカ飛行場ワカチナ周辺

訪問地を選ぶ

順序区間移動手段
1リマ → クスコ航空便
2クスコ市内・周辺街歩き。市内車移動は領収書のある区間を別管理
3クスコ → オリャンタイタンボInca Rail接続バス
4オリャンタイタンボ → マチュピチュ村Inca Rail鉄道
5マチュピチュ村 ⇄ 遺跡Consetturバス
6村 → オリャンタイタンボ → クスコ鉄道+バス
7クスコ → リマ航空便
8リマ → パルパ → ナスカ → ワカチナ → リマツアー車両
9ナスカ周辺小型機の遊覧飛行
10ワカチナ砂丘バギー

移動の通過点と撮影地点を確認できても、全区間の連続した走行記録ではない。未確認の道路線は描いていない。航空便も実際の飛行軌跡を示すものではない。

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