長崎: この旅で訪ねた場所
地名を選ぶとその場所を表示します。位置は施設周辺の目安です。移動経路は描いていません。
出島: 夜の商館でたどるオランダとの縁
夜の出島で明かりのついた部屋に入ると、畳の上に大きな食卓があった。皿やグラスが並び頭上にはシャンデリアが下がっている。壁と天井の模様も見慣れた和室とは違う。日本へ帰ってきたのにどこかオランダでの暮らしへ引き戻されるような景色だった。
長崎へ来るきっかけは司馬遼太郎の『オランダ紀行』にあった。
「鎖国された日本社会を一個の暗箱とすれば、針で突いたような穴がいわば長崎であり、外光がかすかに射しこんでいて、それがオランダだった。」
司馬遼太郎『オランダ紀行』
オランダで暮らしているうちに、僕は日本のことをあまり知らないと感じるようになった。自分が今いる国と日本の関わりさえ、ちゃんと説明できない。この一節を読んでからその接点だった長崎を歩いてみたくなった。晩秋に一人で訪れたのはそんな理由からだった。
出島は最初からオランダ人のために造られた島ではない。1636年にポルトガル人を住まわせる人工島として築かれその退去後の1641年に平戸のオランダ商館が移ってきた。長崎の町人たちが出資して造った島でもある。外国との窓口という言葉の内側には貿易に関わる地元の人々の仕事もあった。
出入りを制限された小さな島で商館員たちは仕事をしながら日々の生活を送った。その暮らしを支えたのは通詞をはじめとする日本側の人々だ。外国の知識が船から降りて自然に広がったわけではない。言葉を訳し内容を理解しようとする人がいて初めて外から来たものが日本の知識になったのだと思う。
周囲を埋め立てられた今の出島に当時の海との境界はそのまま残っていない。建物も復元されたものだ。それでも食卓や部屋のつくりを見ると年表の中の商館に人の暮らしが戻ってくる。僕にとって日常の場所になったオランダを長崎の側から見直す夜になった。




長崎港: 路地と海に重なる交流の歴史
昼は商店街や細い路地を歩いた。古い建物の前で足を止め通りへ出ると路面電車が走っている。坂と階段が多く建物の間から次の道が見える。歩くうちに港を中心に斜面へ広がる街の形が少しずつ分かってきた。
長崎港が開かれたのは1571年。オランダ商館が移ってくるより前にポルトガル船との貿易を通じて町がつくられていった。江戸時代にも中国船は来航し1689年には中国人の居住地として唐人屋敷が設けられた。長崎を知ろうとするとオランダだけを見ていては足りなくなる。
出島と唐人屋敷は別の場所で成り立ちも同じではない。ただ両方の歴史を知ると長崎の異国らしさをひとつの国の影響で説明するのは難しいと分かる。海から来た人々と彼らを迎えて暮らした人々。その積み重ねが食べ物や町並みにも残っているのだろう。
夕方の港には帆船が停まり低い太陽の光が水面に伸びていた。路地を抜けた先にこの海がある。地図や年号だけでは分からなかった長崎の立地が岸壁に立つと少し具体的になる。海の向こうとの関わりを持ち続けた街をその日の夜は出島から眺めることになった。





浦上: 原爆資料館から爆心地を歩く
翌日は長崎原爆資料館へ向かった。壊れた時計や被爆した浦上天主堂の姿を伝える展示を見ていく。前の晩に見た商館の室内とは異なる時間がこの街には残されている。
原爆が投下されたのは1945年8月9日午前11時2分。爆心地は港から北へ離れた浦上にある。長崎というひとつの地名で覚えていた出来事にも街の中の具体的な場所がある。資料館を訪れてから外へ出るとその位置関係を自分の足で確かめたくなった。
原爆落下中心地から平和公園へ歩いた。展示室で見た被害の記録と今ある道路や木々をすぐに重ねて理解できるわけではない。それでも資料館と現地の両方へ足を運ぶことで遠い時代の出来事として読んでいた記録をこの場所に起きたこととして考える時間になった。平和祈念像の前にも立ち寄った。




亀山社中: 坂の上の小さな拠点と龍馬の仕事
若宮稲荷神社の赤い鳥居をくぐり亀山社中記念館へ向かった。階段を上るたびに家並みの見え方が変わる。港からは離れているのに高い所へ出ると海の方へ視界が開ける。長崎は平らな地図より歩いたときの高低差で覚える街なのかもしれない。
亀山社中は1865年に坂本龍馬と同志たちが結成した組織だ。薩摩藩や長崎の商人である小曽根家の援助を受け貿易や物資の輸送に加えて航海訓練も行った。日本初の商社とも呼ばれるが商売と海の仕事と政治活動が重なった集まりだったと知ると少し姿が見えてくる。
名前の亀山は地名で社中は仲間という意味だという。活動拠点に借りたのはもともと亀山焼に関わる人々が使っていた家屋だった。龍馬のために用意された特別な建物ではなく焼き物づくりの営みがあった場所へ若者たちが入ってきた。その由来が長崎の街の歴史と幕末の活動を結びつけている。
グラバー商会との銃器取引や藩への武器の仲介も社中の仕事だった。薩摩と長州の関係が変わっていく背景には、誰がどの名義で買い誰が運ぶのかという具体的な実務がある。薩長同盟という言葉だけを覚えていたときには見えていなかった部分だ。港と商人が集まる長崎に拠点を置く意味もそこから考えられる。
記念館は当時の姿に近づけて整備された日本家屋で展示には書簡の写しやブーツのレプリカもある。外にある大きな「龍馬のぶーつ像」とは別のものだ。英雄の名前から入った場所でも部屋の規模や道具の話に触れると大きな出来事を動かした日々の仕事に目が向く。
さらに風頭公園まで上り龍馬像の向こうに広がる街を眺めた。今の景色を龍馬も見たと言うことはできない。けれど坂を上り下りした距離は自分の中に残る。港の貿易と坂の上の小さな拠点を行き来して考えると長崎の歴史が有名人一人の物語より広く感じられた。





南山手: 大浦天主堂と港を見下ろす洋館
午後は南山手へ向かった。オランダ坂を上り大浦天主堂の白い正面を見上げる。坂の両側の石垣や木々を見ながらグラバー園へ足を延ばした。
大浦天主堂は1865年に献堂されその年信仰を受け継いでいた浦上の人々が訪れた「信徒発見」の場所でもある。外国人のために建てられた教会と禁教のもとで信仰をつないだ人々がここで出会った。外国との交流の歴史と信仰をめぐる歴史は同じものとして片づけられない。
グラバー園では庭や建物の中を歩いた。ベランダの柱の間から港が見え室内には家具や調度品が置かれている。出島で見た復元の食卓とは違う開港後に外国人が暮らした家の風景だった。
旧グラバー住宅は1863年に建てられた。スコットランド出身の商人の家で日本の建築技術と西洋の住まいの形が組み合わされている。出島から続けて訪ねると外国との接点が小さな島の商館から港を見下ろす斜面の住宅へ広がっていったことを考える。
港はここからも見える。初日に水際から眺めた場所を今度は丘の上から見る。建物の歴史を知りながら視線は何度もその先の海へ戻った。






高田酒店: シーボルトの故郷から来た夫妻との出会い
その夜に飲んでいた高田酒店ではドイツ人の夫妻と知り合った。長崎へ来た理由を尋ねると故郷の先達であるシーボルトゆかりの地を訪ねたかったのだという。その故郷がヴュルツブルクだった。
僕はオランダで暮らすようになって日本のことをもっと知りたくなり長崎へ来た。二人はドイツの自分たちの町から同じ長崎へ来ている。旅の出発点は違うのにシーボルトという一人の人物を通じて話がつながった。
オランダ商館の医師として覚えていたシーボルトがドイツのある町では地元の先人として語られている。教科書の中の肩書きとその人が生まれた土地での見え方は違う。夫妻の話を聞いてヴュルツブルクという知らなかった町を訪ねてみたくなった。
この夜は女将からも次の日に行く場所を教えてもらった。日本二十六聖人記念館には絶対に行った方がいいという勧めだった。一人で資料を調べているだけでは決まらなかった翌日の行き先が酒屋での会話から増えていった。
光永寺: 大イチョウの黄葉と福沢諭吉の長崎
次の日は中島川沿いを歩いた。眼鏡橋の二つのアーチが水面に映り向こうに街の建物が並んでいる。夜にも見た橋だけれど昼は石の色や川沿いの木々がよく見えた。
光永寺の境内では大きなイチョウが黄色く色づいていた。見上げた枝にも足元にも葉が重なる。天才的に美しいと思うほどの紅葉だった。幹を入れたり門の向こうから眺めたりと同じ木の写真を何枚も撮っていた。
ここには若い福沢諭吉が長崎で学んでいた時期に寄宿したという歴史がある。福沢といえば慶應義塾や『学問のすゝめ』を先に思い浮かべるけれどその前に長崎で学ぶ時期があった。出来上がった人物像よりもまだ学びの途中にいた一人の若者の姿を考えたくなる。
出島から何が伝わったかに加えて誰がそれを学びに来たのか。そんなふうに見ると商館の外にある寺にも目が向く。まずイチョウに足を止めその後で場所の来歴を知る。歴史を探しに来た旅でも順番はそればかりではなかった。




シーボルト記念館: 鳴滝で知る医師と家族の時間
光永寺から鳴滝へ足を延ばしシーボルト記念館を訪ねた。赤いれんがの建物の近くにはシーボルト宅跡がある。前の晩に夫妻から故郷の話を聞いた人物を今度は彼が暮らした長崎の側からたどっていく。
1823年に来日したシーボルトは翌年に鳴滝塾を開いた。優れた医師として出島の外で診療することを許され、全国から集まる医師たちに医学を教えた。一方で門人たちから日本の自然や社会について学びその研究を助けてもらっていた。西洋から日本へ知識を渡した人という説明だけではこの関係の半分が抜けてしまう。
日本で彼と結ばれたのが長崎の女性楠本たきだった。たきの呼び名にちなむ「オタクサ」をアジサイの名にしたという話も残っている。植物の名前を通じて家族の存在を知ると採集した植物を分類する学者にもここでの個人的な暮らしがあったのだと感じる。
二人の娘いねは1827年に生まれた。父が国外追放となった1829年には、いねはまだ幼かった。いねは父の門人らに医学を学び医師として自分の道を歩んでいく。後には宮内省御用掛として皇室の出産にも立ち会った。父の名声の付け足しとしてではなく長い時間をかけて医学を身につけた一人の人物として知りたいと思った。
シーボルト事件で問題となったのは日本地図など当時持ち出しを禁じられた品々だった。日本を詳しく知ろうとした研究は国の管理する情報との境界に触れた。長崎の交流には知識を教え合う場があり同時に越えることを許されない線もあった。その両方が一人の生涯に現れている。
再来日がかなったのは1859年。最初の離日から30年が過ぎていた。幼い娘を残して去ることと成人した娘に再会すること。その間に流れた時間を考えると来日と帰国を結ぶ年表の線は急に長く感じられる。医学や日本研究で知られる人の人生をたきといねの時間からも眺められたことがこの場所で印象に残った。



日本二十六聖人記念館: 女将に勧められて訪ねた西坂
その後は西坂の日本二十六聖人記念館へ向かった。女将の勧めがなければこの旅でどこまで足を延ばしていたか分からない。建物の前には二十六人を表したレリーフが並んでいた。大浦天主堂とは別の場所で長崎のキリスト教の歴史をたどる。
1597年2月5日、豊臣秀吉の命によって二十六人がこの西坂で処刑された。京都や大阪で捕らえられ長崎まで歩いて護送された人々だった。宣教師だけの集団ではなく日本人の信徒も含まれていた。キリスト教が外国から来たという話とそれを信じた日本の人々の歴史は分けて考える必要がある。
二十六人が聖人に列せられたのは1862年で事件から二百年以上後のことだ。先に訪ねた大浦天主堂はこの二十六聖人にささげられた教会だった。離れた二つの場所に同じ人々の記憶があると分かり大浦で見上げた教会の意味も少し変わった。
記念館は列聖百年にあたる1962年に開かれた。館内ではキリスト教に関わる絵や信仰の品々を見ていった。出島の貿易を知っただけでは見えてこない長崎がここにある。外から人や物が来ることとその人々の信仰が受け入れられることは同じようには進まなかった。
展示の中には弥勒菩薩の姿をした小さな像もあった。説明を読むとかくれキリシタンがキリスト像として拝んでいたという。二十六人の処刑より後の時代にも禁教の中で信仰を続ける人々の時間がある。仏像の形を見ているのにそこに託されたのは別の信仰だった。外見だけでは分からないものをこの像の来歴から教えられた気がした。
僕はオランダとの接点を見たくて長崎へ来たけれど交流の歴史だけを追えばこの街が分かるわけではなかった。貿易が続く一方で信仰を禁じられた人々がいた。港町のにぎわいや洋館の美しさと並べてそのことも考えておきたい。女将に教えてもらった場所へ来たことで街の見方に別の手掛かりが増えた。
高田酒店で勧められたのはこの記念館とヴュルツブルクだった。ひとつは翌日の長崎でもうひとつは後のドイツの旅で訪れることになる。知らない街の酒屋で交わした会話が次に自分の足で確かめたい場所になっていった。



レストランとバー
| 店名 | おすすめポイント |
|---|---|
| 中華レストランよこはま | 特製ちゃんぽんとシューマイを組み合わせて楽しめる一軒。僕はこの二品を昼食に選んだ。 |
| ツル茶ん | 長崎名物のトルコライスを食べたいときに。一枚の皿に集まった料理を楽しむ昼食は坂道を歩いた日の休憩にもなった。 |
| 魚たつ五島海山 | 刺身の盛り合わせに生からすみを添え魚料理とお酒を楽しみたいときに。僕はサラダも合わせて注文した。 |
| 博多大衆酒場ひびき思案橋店 | 思案橋周辺の散策と合わせて立ち寄れる酒場。僕は初日の夜に利用した。 |
| むつ五郎 | 長崎で魚料理を楽しみたい夜の候補に。僕は旅の最後の夜に立ち寄った。 |
| 高田酒店 | 長崎県産のお酒を楽しめる酒屋の角打ち。女将や居合わせた人との会話もこの店で過ごした時間の思い出になった。 |


宿泊
| 宿名 | 泊数 | 総額 |
|---|---|---|
| ホテル ベルビュー長崎出島 | 3泊 | 48,000円 |
歴史に関する参照: 出島公式・出島の歴史 / 長崎市公式観光・亀山社中記念館 / 長崎市・シーボルトの生涯 / 長崎県・日本二十六聖人殉教地


コメント