目を覚ますと、窓の向こうには、遠い昔を思わせる谷の景色が広がっていた。
ローカルバスに揺られて、およそ二時間。キシナウを離れ、たどり着いたオルヘイ・ヴェキには、大きく曲がる川と、谷を囲む崖があった。丘の上に立つ石の十字架は、表面に苔をまとっている。青い空の下でそれを見ていると、眠っていたあいだに、ずいぶん遠い時間まで運ばれてきたような気がした。
ここでは、ひたすら歩いた。崖の内側に教会があり、道の先には村があり、その向こうにはタタール人の浴場跡があった。ここまでモンゴル軍が来ていたのか。低い石の壁を前に、地図で知っていた世界の広さが、急に足元へ近づいてきた。町をつくり、湯を沸かし、祈りを重ねた人たちがいる。もう姿のない人たちの暮らしを、僕は自分の足でたどっていた。
川は今も、谷の底を曲がっている。町が生まれ、失われたあとも、その曲がり方は景色の中心にあった。この旅で長く残ったのは、歴史の説明を読んだ記憶より、石の十字架の向こうに川を見た、その眺めだった。
この谷へ向かう前には、首都キシナウを歩いた。帝国の記憶を残す街路と教会、意外なプーシキンの話、そして美味しかったモルドバワイン。まずは、そこから旅をたどっていく。
キシナウへ――街路にも帝国の歴史がある
キシナウには夜に到着した。翌日、中心部を歩く。通りの角には装飾のある建物が立ち、教会や広場へと道が続いている。まずは歩きながら、この街の形をつかんでいく。
キシナウが文書に現れるのは1436年。ただ、今の街並みを考えるうえで大きな節目になるのは1812年だ。ロシアとオスマン帝国の戦争後、プルート川とドニエストル川の間の地域がロシア帝国に入り、キシナウはベッサラビアの行政の中心となった。19世紀初めには、直線の街路と長方形の街区を使う都市計画も進められた。地図の線にも、街が大きく変わった時代が残っている。
大統領府も印象に残った。僕にはずいぶん無防備に見えたのだ。一国の大統領が仕事をする場所と聞くと、まずは厳重な警備や近づきにくさを想像する。それが、街を歩く僕の目にはずいぶん身近に映った。もちろん、見た目だけで警備の実態は分からない。それでも、国家の中心となる建物が、こんなふうに街の風景に入っているのか、という驚きは大きかった。
帝国の地方行政の中心だった街が、今は独立した国の首都になっている。建物の装飾や道の形を眺める時間に、その変化を重ねてみると、キシナウが少し違って見える。街を歩く面白さは、目立つ建物を見つけることだけでなく、なぜここにこういう街があるのか、と考え始めるところにもあると思う。


聖テオドラ・デ・ラ・シフラ教会――学校の礼拝堂から、無神論博物館へ
街歩きで入った教会の一つが、聖テオドラ・デ・ラ・シフラ教会だった。内部には天井まで聖像画が続く。通りを歩いていたところから、絵と装飾に囲まれる空間へ入る。その切り替わりが、写真にもはっきり残っている。
この教会は1895年、女子ギムナジウムの礼拝堂として建てられた。設計したのは、キシナウの建築に足跡を残すアレクサンドル・ベルナルダッツィ。ビザンティン様式を取り入れた建物だが、ソ連時代には無神論博物館として使われたという。独立後、再び礼拝の場となった。
教会の建物を使って、宗教を否定する展示をしていたという。その来歴を、今の聖像画に囲まれた内部と重ねると、不思議な気持ちになる。祈るためにつくられた場所で、祈ることの意味が否定される。建物の用途が変わった、という一言では片づけにくい変化だ。
そして、今は再び教会になっている。壁や天井の絵を、美しい装飾として眺めるだけでは見えてこない時間がある。同じ空間を、ある時代の人は祈りの場として、別の時代の人は宗教を学び直す展示室として見ていた。その隔たりを思うと、今ここに残る教会の姿が、僕にはいっそう重みを持って感じられる。

凱旋門と大聖堂――大きすぎた鐘、消えた鐘楼
凱旋門の前にはチューリップが咲いていた。広場には花で飾られた大きな卵があり、その向こうに白い鐘楼が立つ。春の街歩きの景色として残った場所だが、凱旋門の由来には、ずいぶん実用的な事情も混じっている。
門は、ロシアのオスマン帝国に対する勝利を記念するもの。鐘には戦争で得たオスマン軍の大砲の金属が使われた。ところが、一番大きな鐘は大聖堂の鐘楼の開口部を通らなかったという。その鐘を収めることも、凱旋門を建てる理由の一つになった。勝利の記念物に、鐘の置き場所という話が重なるのが面白い。
近くの生誕大聖堂は1830年代に建てられた。中へ入ると、金色の聖像の仕切りとドームの絵が広がり、上の窓から光が差していた。戦災を受け、ソ連時代には展示施設として使われた時期もある。現在の礼拝の空間は、建てられた当時から途切れず続いてきたわけではない。
広場の鐘楼も、1960年代に取り壊され、1990年代に再建されたものだ。今立っている白い塔を見ると、ずっとここにあったように見える。けれど、実際には塔がなかった時期を、この街の人たちは生きている。整った広場の景色の中に、そういう空白が隠れているのだ。
僕の写真では、チューリップと花飾りが広場を明るくしている。その景色と、戦争の大砲から鋳造された鐘や、壊されて戻ってきた鐘楼との組み合わせが興味深い。春の穏やかな風景にも、戦争や信仰をめぐる時間が重なっている。目の前の美しさと、その場所がたどってきた歴史の両方を知ると、ただ通り過ぎるには惜しい広場だと思う。



中央市場――「新しい市場」が、二百年の暮らしを支える
中央市場には屋外の店並みがあり、屋根の下にも売り場が続いていた。果物や野菜が並ぶ通路を歩く。教会や凱旋門を見た後に来ると、今度は食べ物や日用品の側から街を見ることになる。
この市場の前身は、1825年に記録される「ピアツァ・ノウア」、つまり新しい市場だった。キシナウがロシア帝国の行政都市として整えられていった時代に、市場もまた形をつくっていた。かつての「新しい市場」が、今は二百年ほどの歴史を持つ場所になっている。
市場では、歴史のある場所だからといって、買い物の手が止まるわけではない。野菜や果物が並び、通路には買い物をする人がいる。僕が見ているのは、誰かが今日の食事を用意するための場所でもある。旅先の暮らしを遠くから眺めるのではなく、その間を自分も歩いている。この近さが、市場を訪ねる面白さだと思う。
二百年前の「新しい市場」が、今も食べ物を買う場所として続いている。教会のように用途が大きく変わった建物を見た後だと、この継続も気になる。支配する国や街の名前の表記が変わっても、人は食事をし、買い物をする。中央市場は、キシナウの歴史を日々の暮らしの方から考えられる場所だった。


ヴァレア・モリロル――湖畔の散歩と、ソ連時代の公園
夕方はヴァレア・モリロルの湖畔へ向かった。湖沿いの遊歩道を歩き、階段を上がり、丘の上の白い柱の円形の建物まで足を延ばした。湖畔と丘の上を巡り、この日も歩く時間が続いた。
公園がつくられたのは1950年。当時、モルダビアの共産党指導者だったブレジネフの提案で整備され、当初はレーニン主義青年共産同盟の名を冠していた。湖を見下ろすカスケード階段は218段ある。水辺と大きな階段を組み合わせた景観にも、ソ連時代の公共空間づくりが残っている。
教会と市場を歩いた一日の最後に、広い水面と湖畔の道がある。街の中心で建物を見ていたときとは、写真の中の空の広さも違う。キシナウに、こうして水辺まで歩ける場所があることも、街を知る一部だった。
公園の成り立ちを知ると、ソ連時代も遠い政治の話ばかりではなく、人が散歩する場所や休日を過ごす場所をつくった時代として見えてくる。歴史を象徴する名前は変わっても、湖と道は今の街の人たちが使っている。僕にも、街の変化と、そこで続いてきた暮らしを一緒に考えられる場所に思える。


オルヘイ・ヴェキへ――川が曲がる谷を、ひたすら歩く
翌朝は、フロントガラスに「ORHEIUL VECHI」と掲げたミニバスで郊外へ。着いてからは、とにかくひたすら歩いた。ラウト川が曲がる谷に、石灰岩の斜面と村がある。尾根から見る川と、谷の道から見上げる岩。同じ場所でも、歩くにつれて景色の形が変わる。
オルヘイ・ヴェキが歴史の舞台になったのは、この地形と水路による。川に囲まれた高台は守りやすく、ラウト川はドニエストル川を通じて黒海方面の交易にもつながった。美しい谷は、町を守り、外の世界と結ぶ場所でもあった。
古代にはゲタイ人の要塞が築かれた。さらに1241年ごろ、ここにあった集落をタタール・モンゴル勢力が征服する。14世紀前半には黄金のオルダの都市「シェフル・アル・ジェディド」、すなわち「新しい町」が生まれた。モスク、隊商宿、浴場を備えた都市だった。
14世紀後半、モンゴル勢力が退くと、その跡にモルダヴィアの町オルヘイが発展した。しかし16世紀半ば、オスマン当局の要求で防御施設が壊され、町は衰退していく。18世紀には住民が現在のトレブジェニ村へ移ったとされる。今の谷には、こうして続いた町の変遷と、村の暮らしが重なっている。
この成り立ちをたどると、ひとつの谷にこれほど異なる時代が集まっていることに圧倒される。天然の守りになる場所は、同時に争われる場所でもある。人々がここを選んだ理由が、そのまま町の運命にもつながっていたのだと思う。
僕がこの旅で感じた「教会や町の歴史への感銘」は、年代をたくさん知った、というだけのものではない。今は岩と草地が広がるところに、町があり、人が行き来し、信じるものも変わってきた。その変化が、ひたすら歩いた谷の中に収まっている。この風景が、かつては何人もの人にとって世界の中心だったのかもしれないと思うと、歴史が急に近くなる。


岩窟教会――崖の内側に残る祈りと、その中断
尾根の上だけでなく、岩を掘った教会にも入った。低い岩の天井の下に聖像とろうそくが並ぶ。外へ出ると、川と谷の景色が一気に開ける。岩の内側と外側を行き来するだけで、この場所のつくりがよく分かる。
ペシュテラの岩窟修道院は15世紀にさかのぼり、教会のそばには修道士のための小さな岩窟の部屋も残る。岩は町を守る地形であると同時に、祈りや暮らしの空間にもなっていた。丘の上に立つ白い生誕教会の方は20世紀初めの建物で、岩窟教会とは時代が異なる。
岩窟教会には、その後の変転もある。19世紀から20世紀初めには村の教区の教会として使われたが、1946年に閉鎖され、集団農場の倉庫に転用された。のちに博物館となり、1996年には修道士の共同体による復興が始まったという。
僕が教会の歴史に感銘を受けたのは、古さだけが理由ではない。岩を掘って祈る場所をつくり、それが倉庫となった時代を経て、また教会として使われている。その間も、岩そのものはそこにあり続けた。同じ壁に囲まれながら、そこに入る人が求めるものは変わっていく。
今の聖像やろうそくと、岩の天井を一緒に見ると、その長い時間の中に自分も少しだけ入ったように思える。外には大きな谷が広がり、内側には人が祈るためにつくった空間がある。自然の大きさと、人の営みの小ささがすぐ隣にある。その取り合わせも、この教会を印象深いものにしている。




タタール人の浴場跡――モンゴル軍は、ここまで来ていた
とりわけ驚いたのが、タタール人の浴場跡だった。低い石の壁が、かつての部屋の区画を残している。ここまでモンゴル軍が来ていたのか。その驚きが、オルヘイ・ヴェキで知った歴史の中でも強く残った。
この浴場は、黄金のオルダの都市の施設だった。床下に熱い空気を通す暖房方式が使われ、町には三つの浴場があったとされる。軍が遠くまで進んだ、というだけでなく、その先に町をつくり、体を洗い、暖まるための設備まで整えていた。
僕には、その「浴場」という具体性が大きかった。戦争や征服の話だと、まず軍隊の姿が浮かぶ。ところが、ここに残るのは人が湯や熱を使った場所の跡だ。遠征の距離への驚きに、そこに暮らしがあったことへの驚きが加わる。モンゴルの歴史が、この谷の石の区画まで続いているのが面白い。
料理の「タルタル」とタタール人の名がつながっていると知ったのも、この場所だった。話の出発点は、民族の呼び名の tatar だ。この名前がヨーロッパに伝わると、冥界を意味するラテン語の Tartarus やギリシャ語の Tartaros の影響を受け、r が加わった tartare という形になった。フランス語の tartare は、タタール人など中央アジアのテュルク・モンゴル系の人々を指す呼び名として使われた。
その呼び名が、料理の「タルタルステーキ」や「タルタルソース」にも残っている。つまり、民族名の tatar がヨーロッパで tartare という語形になり、その言葉が料理名にも使われるようになった、というつながりだ。ただし、名前がつながることと、今の料理をタタール人が発明したことは別の話になる。
浴場の跡で聞いた民族の名前が、普段聞く料理の名前へつながる。その意外さが面白かった。軍がここまで来たことに驚いていたら、その人々の呼び名まで、ずっと身近なところに残っていたのだ。遺跡を訪ねているのに、歴史が食卓の言葉にまで広がっていく。このつながりも、僕にとってオルヘイ・ヴェキを忘れられない場所にしている。

遺跡の間に、今の村がある
歩いていると羊の群れやヤギにも出会った。村には屋根の付いた井戸があり、家のそばでは春の木に花が咲いていた。岩窟教会や浴場跡の間に、今の家や道、動物のいる風景が続いている。
歴史的な場所を訪ねながら、今の村の道もひたすら歩く。遺構の間に井戸があり、家があり、羊やヤギがいる。この取り合わせがいい。昔の人の暮らしを考えたすぐ後に、今もここに暮らしが続いていることが目に入る。町が衰えたといっても、この谷から人の営みまで消えてしまったわけではないのだ。
オルヘイ・ヴェキを思い出すとき、教会や浴場だけでなく、井戸や動物の写真も一緒に浮かぶ。遺跡を見るために歩いた道が、村そのものの記憶にもなっている。食事を挟んで歩き続け、帰りもローカルの乗合バスでキシナウへ戻った。




キシナウにいたプーシキン――鉄のステッキと、決闘の逸話
キシナウで意外だったのが、プーシキンとのつながりだ。ロシアの詩人が、この街に住んでいた。それだけでも僕には驚きだった。旅の最後の朝には、プーシキンの家の博物館の外観も見に行った。
プーシキンがキシナウへ来たのは1820年、21歳のとき。帝政政府によって南方へ移され、1823年までこの地域で暮らした。当時のキシナウはロシア帝国のベッサラビアの中心だった。街の歴史をたどると、詩人がここへ来た背景もつながってくる。現在の博物館の家に住んだのは、その滞在のうち数か月だ。
僕の記憶に残ったのは、決闘や鉄製のステッキにまつわる逸話だった。鉄のステッキを振り回すような、力持ちの話だった気がする。細部には曖昧さがあるが、人物像が急に身近になる面白さがあった。
資料でも、重い金属のステッキで射撃のために腕を鍛えたという話が紹介されている。またズボフとの決闘では、相手が狙っている間にサクランボを食べ、相手が撃ち損じると撃ち返すのをやめた、という逸話が伝わる。文学の名前と、こうした大胆な振る舞いが同じ人物につながる。
鉄のステッキで腕を鍛えたり、決闘の最中にサクランボを食べたり。作品の名前を通じて知る人物に、急に体の動きや性格が加わる。僕には、それが面白かった。偉大な詩人であることと、こうした大胆な振る舞いが同じ人の中にある。そのちぐはぐにも見える組み合わせが、人物像をむしろ生き生きとさせる。
そして、その若いプーシキンが暮らしていたのがキシナウだった。家の外観と人物の逸話が結び付くと、文学の名前が街の記憶になる。誰かがここに住んでいた、という一見小さな事実から、その人の生き方まで気になってくる。この旅でプーシキンを知った面白さは、そこにあった。

旅の結び
キシナウの教会や広場から、オルヘイ・ヴェキの岩窟教会と浴場跡まで、今回もよく歩いた。なかでも郊外は、僕にはひたすら歩いた場所として残っている。そして歩いた先で、教会や町の歴史に感銘を受けた。
モンゴル軍がここまで来ていたこと、プーシキンがキシナウに暮らしていたこと。驚きの入口は違っていても、どちらも遠く感じていた歴史が目の前の場所につながった瞬間だった。僕にとってモルドバは、歩いた景色だけでなく、そこで知ってしまった話も一緒に持ち帰る旅先になった。
おすすめのレストラン
キシナウで飲んだモルドバワインは美味しかった。街歩きと郊外歩きの旅に、ワインの記憶も加わった。料理を食べた店と、ワインを飲みに立ち寄った店をまとめておく。
Wine.MD Tasting Roomには、ボトルを並べたワインの試飲機があった。Carpe Diem Wine Barでは赤ワインを飲んだ。街や遺跡について知る時間とは別に、その国でつくられたワインを飲む時間もある。難しい説明を離れて、まず美味しかったという感覚が残るのがいい。モルドバの記憶に、歴史だけでなく味が加わった。
食事はBlack Rabbit Caféでゼアマとウサギ料理、Sălcioaraで肉料理とジャガイモを食べた。ほかに、昼食で鶏肉ときのこのクリーム煮にママリガを合わせた一皿、オルヘイ・ヴェキの村ではゼアマも食べた。
| 店名 | 特徴 | お会計 |
|---|---|---|
| Black Rabbit Café | ゼアマ、ウサギ料理、ワインなどを注文。写真はソースと花を添えたウサギ料理。 | 540 MDL(約4,530円) |
| Sălcioara | 肉料理とジャガイモ、ビールを注文。看板と料理の写真を掲載。 | 340 MDL(約2,850円) |
| Wine.MD Tasting Room | 複数のボトルを並べたワインの試飲機がある店。 | 435 MDL(約3,650円) |
| Carpe Diem Wine Bar | 赤ワインを飲んだワインバー。カウンターとボトルが並ぶ店内。 | 195 MDL(約1,630円) |







宿泊先
| 宿名 | 泊数 | 総額 |
|---|---|---|
| Lion’s Hotel | 3泊(予約) | 5,289 MDL(約44,320円) |
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