八坂の塔へ続く道に、人がほとんどいなかった。
久しぶりに京都へ行きたくなって、二泊した。台風が迫っていて、僕が歩いた街には観光客がほぼいなかった。普段の京都を説明するつもりで、このときの静けさを持ち出すことはできない。
濡れた石畳、南禅寺の廊下から見た庭、高台寺の竹林。夜にはまた祇園へ出て、八坂の塔を見た。泊まったのはTHE GATE HOTEL 京都高瀬川 by HULICだ。
今回歩いた場所
高瀬川と祇園白川:水辺の散歩と幕末の京都
ホテルの近くには高瀬川が流れている。夜になると、建物や店の灯りが水に映り、細い川の向こうに木や格子が重なった。夕食へ出たり、歩き終えて戻ったりするたびに、この水辺を通る。
このあたりの歴史をたどると、泊まった場所と幕末が思いのほか近い。土佐藩邸は高瀬川に面し、のちの立誠小学校一帯を占めていた。今回のホテルは、その旧立誠小学校の跡地にある。寺や史跡へ出かける前から、宿の周りが幕末の人たちの活動した範囲に重なっていたわけだ。
木屋町や河原町には、土佐や長州から京都へ来た人たちの足跡が残る。高瀬川も、当時は京都と伏見、大坂を結ぶ水運の一部だった。今見ると小さな流れだけれど、人や物が出入りする都市の動脈だったと思うと、川沿いに藩邸や人の居場所が集まったことにも納得がいく。
近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われたのも、この界隈だ。今回はその跡を一つずつ巡った旅ではない。それでも、京都の幕末を考えるとき、会談や襲撃の名を年表で追うだけでは足りない気がする。藩邸、宿、店が近い距離で混じる街に、それぞれの思惑を持った人たちが集まっていた。
祇園白川へ行くと、木々の下を水が流れ、家々の灯りが見えた。さらに鴨川まで出れば、視界が大きく開ける。こうした水辺や路地を歩ける距離が、歴史を考えるときにも役に立つ。昔の建物がそのまま残っていると考えるより、川と街の位置関係を重ねてみる。そのほうが、僕には幕末の京都を想像しやすい。
南禅寺:三門、水路閣、庭を巡る
南禅寺では三門を見上げた。大きな屋根の下に、太い柱が並んでいる。南禅寺の始まりは1291年。亀山法皇が離宮を禅寺とし、無関普門を開山に迎えた。今は寺として歩いているこの場所にも、その前には皇室の住まいとしての時間があった。
現在の三門は、藤堂高虎が1628年に再建したものだ。大坂夏の陣で亡くなった家来を弔うためだったという。門の大きさを見ていたところへ、その理由が加わる。力を示すような建物の姿と、亡くなった人を供養する目的は、一つの建物の中で重なる。
歌舞伎の石川五右衛門と結びつく門でもある。三門は、仏教の三つの解脱の門を表す言葉だという。見上げたときの量感に、宗教の意味や芝居のイメージが何層も重なる。「大きな門」として眺めていたものが、名前の意味を知るだけで、違う輪郭を持ち始める。
境内を進むと、木造の建物の中にレンガの水路閣が現れる。1888年に完成した、琵琶湖疏水の水を運ぶ施設だ。寺の歴史を知ったあとに見ると、アーチの古さは寺の古さと同じではないことがはっきりする。中世の離宮と禅寺、江戸時代の再建、近代の水道事業。その違う時間を、短い境内歩きで行き来している。
方丈では廊下から庭を眺めた。柱と軒の暗さに囲まれて、白砂や石、緑が明るく見える。大方丈と小方丈は国宝で、大方丈の建物の由来には、御所から移された建物をめぐって説がある。古い建物の説明にも、確かに分かることと、伝えられていることがある。
廊下の角を曲がると、白砂の庭から苔や木々の庭へ、見えるものが変わった。歴史の話を知っても、写真で何度も撮っていたのは、こうした明暗と奥行きだった。建物の由来を頭に置きながら、その間を自分の足で移動できるところが、南禅寺の面白さだと思う。
高台寺:ねねゆかりの寺と竹林
高台寺へ続く石段を上ると、道の先が木々に包まれていく。境内では廊下から庭や建物を眺め、池の周りや竹林を歩いた。
高台寺は、豊臣秀吉の没後、妻の北政所ねねが菩提を弔うため1606年に開いた寺だ。ここで少し立ち止まりたくなるのは、造営を大きく援助したのが徳川家康だったという話。寺の公式説明でも、当時の政治的な配慮があったとされている。豊臣の記憶を残す寺と、徳川の支援が、同じ由緒の中にある。
秀吉への追悼と、次の時代をつくる徳川の政治。その二つが同じ寺の由緒に並んでいる。「ねねの寺」と聞くと夫婦の物語へ目が向くけれど、庭や建物が形になるまでには、もっと多くの人の事情が関わっていたのだと考えさせられる。
ねね自身もここに葬られている。霊屋には秀吉とねねの像が祀られ、ねねの像の下が墓所だという。華やかな高台寺蒔絵で知られる場所でもある。庭の美しさに目を向ける一方で、ここは誰かを記憶し、弔うための寺なのだという由緒も忘れたくない。
写真には、茅葺きの建物、水に映る緑、廊下の屋根が残っている。池庭は小堀遠州の作と伝わる。庭越しに建物を見て、次には木々の間へ入る。その移り変わりの中に、ねねが暮らした時代から受け継がれてきた場所がある。
竹林まで進むと、視界は縦に伸びる竹で埋まった。南禅寺で見た白砂や石とは違う景色だ。似たような寺巡りにならないのは、庭のつくりだけでなく、そこに残る人の事情も違うからだと思う。
八坂神社と八坂の塔:夕方から夜の祇園散歩
八坂の塔は、坂道の先に屋根が何段も重なって見える。近づくにつれて、塔と道の比率が変わった。今回は外から眺めた。近くの八坂庚申堂では、色とりどりのくくり猿が下がっていた。
夜には八坂神社へ向かった。塔と神社は名前が似ているけれど、八坂の塔は法観寺の五重塔で、八坂神社とは別の場所だ。昼夜の写真を並べると一続きの景色に見えても、寺と神社、それぞれの歴史がこの狭い範囲にある。
八坂神社の創祀には諸説があり、公式にも複数の社伝が紹介されている。確定した創建年だけを一つ掲げるより、長い間に神仏の信仰が重なってきた場所と見るほうが、この神社の歴史に近づけそうだ。今の「八坂神社」という社名になったのは1868年で、それ以前は祇園社などと呼ばれていた。「祇園」という街の名と神社の結びつきも、そこにある。
祇園祭も、華やかな山鉾だけの祭りではない。社伝では、869年の疫病流行の際、神泉苑に当時の国の数にあたる六十六本の矛を立て、神輿を送って厄災が鎮まるよう祈ったことに由来する。街が人を集める場所であると同時に、病や災いを恐れた人たちの暮らす場所でもあったことが、祭りの始まりに表れている。
台風が迫る夜、僕は提灯や建物の灯りを眺めながら歩いていた。そこに祈りの歴史を重ねると、八坂神社と街とのつながりが少し身近になる。人が集まり、暮らし、災いが過ぎることを願う。そのための場所として、神社が今も街の中にある。
再び八坂の塔へ続く道を歩くと、石畳に光が落ちていた。昼に撮った場所をまた撮る。観光客のほとんどいない道の広さと、普段とは違う静けさは、このときの天候と一緒に覚えている。
THE GATE HOTEL 京都高瀬川:ラウンジで過ごす京都の夜
泊まったTHE GATE HOTEL 京都高瀬川 by HULICは、高瀬川のそばにある。ラウンジではお酒も提供されていて、街歩きの合間や一日の終わりに過ごせる場所だ。夜の街を歩いたあと、またこのあたりへ戻ってきた。
ホテルは旧立誠小学校の跡地にあり、新築棟と、かつての校舎を生かした棟で構成されている。
食事は、葱や平吉 高瀬川店で賀茂茄子や九条葱の料理など。南禅寺の近くでは一休亭で、そばとご飯の膳を食べた。夜には先斗町の路地へも出た。寺や庭を歩く時間と、街へ戻って食事をする時間。その往復が、今回の二泊の京都だった。祇園の日本料理よしみでは、刺身や小鉢の夕食をとった。
今回の宿泊
| 宿 | 泊数 | 宿泊額・条件 |
|---|---|---|
| THE GATE HOTEL 京都高瀬川 by HULIC | 2泊 | 60,000円 |
おすすめのレストラン
今回訪れた飲食店・バーから、選ぶときのポイントをまとめた。
| 店 | おすすめポイント | 会計金額 |
|---|---|---|
| 葱や平吉 高瀬川店 | 賀茂茄子田楽や九条葱の料理など、京野菜を中心に食べたいときに。高瀬川周辺の街歩きと合わせやすい。 | 19,144円 |
| 一休亭(南禅寺近く) | 南禅寺の拝観前後に、そばとご飯の膳で昼食をとるなら。寺巡りの途中で食事をまとめられる。 | 1,500円 |
| WINE BAR MarCO | 京都の夜、食事とは別にワインバーへ寄りたいときの候補。 | 6,200円 |
| THE GATE HOTEL Lobby Lounge & Bar & Terrace | 宿泊先に戻ってウイスキーを飲むなら。街を歩いたあと、ホテル内で一杯を楽しむ選択肢。 | 3,490円 |
| 日本料理 よしみ | 祇園で刺身や小鉢を中心とした日本料理の夕食をとるなら。寺社巡りのあとの食事先に。 | 12,200円 |
参考資料
- 南禅寺 方丈
- 京都市 水路閣保存管理計画
- 高台寺の宝物と歴史
- THE GATE HOTEL 京都 公式
- 高瀬川周辺と幕末の京都(京都市公式観光)
- 南禅寺の歴史
- 南禅寺 三門
- 高台寺の歴史
- 八坂神社の歴史
- 法観寺・八坂の塔(京都市公式観光)
背景資料の確認:2026年10月19日。本文は2024年の訪問記録です。現在の拝観・営業条件は各公式サイトをご確認ください。


















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