旧市街へ向かう車の窓から、道路を見ていた。
車が多い。車窓の景色を追っていても、すぐに別の車が視界に入ってくる。ジャカルタに来て最初に強く感じたのは、その交通量だった。これだけの人が、それぞれどこかへ向かっている。その様子に、街の活気を感じた。
2026年1月下旬。ブルネイから移動してきた僕は、メルキュール・ジャカルタ・サバンに荷物を置き、街を見に出ていた。
途中、運転手が数日前の洪水について話し始めた。大雨が降り、市内のあちこちで道が通れなくなったのだという。
話は、オランダのことにまで及んだ。オランダ人が去るときに、水を管理する技術を十分に聞き出せなかった。それが洪水につながっているのだ、と彼は説明した。
その因果関係が正しいのか、僕には分からなかった。ただ、いま目の前にある道路の話をしていたはずが、いつの間にか植民地時代の話になっていた。
車の外へ目を戻した。旧市街は、もう少し先だった。

広場のまわりを歩く
車を降りて、旧市街を歩いた。
白い壁の建物に、赤茶色の屋根。通りには店が並び、軒先に品物が下がっている。広場へ出ると、建物の前を歩く人たちが、明るい地面の上に小さく見えた。
ここはファタヒラ広場。かつてバタヴィアと呼ばれた街の市庁舎前の広場だ。正面の白い建物は、1710年に建てられた旧市庁舎で、いまはジャカルタ歴史博物館になっている。観光客が歩き、写真を撮るこの場所が、かつては街を治める仕事の中心だった。
空には青いところが広がり、雲の間から日が差していた。運転手から聞いた大雨の話と、この広場で見上げる空は、すぐには結び付かなかった。

窓の並びや壁の形を眺めながら歩く。こうした建物が建つ前には、ここにどんな街があったのだろう。外国から来た人たちが街を造り変えていったとき、もともと暮らしていた人たちは、何を見ていたのだろう。
これまで歩いた東南アジアの街も思い浮かべた。似たものを見つけた気がしても、その国で起きたことまで同じになるわけではない。植民地になる前にも、それぞれの土地で長い時間が過ぎていた。
広場を囲む建物を見て、また通りへ目を向ける。古い壁の近くでは、いま営業している店に人が集まっていた。
建物の中に入ると、天井には太い梁が渡り、木の床の上に家具が置かれていた。壁際の展示を見たあと、窓へ近づく。外には、さっき歩いた広場があった。
カフェ・バタヴィアの窓際で
カフェ・バタヴィアが入るのは、19世紀から残る建物だ。いくつもの用途を経て、画廊として使われた時期もあり、1993年に現在のレストランとして開店した。古い建物だからといって、植民地時代からずっとカフェだったわけではない。
入口から奥へ進むと、赤い絨毯を敷いた階段があった。壁には、大小の額が隙間を埋めるように並んでいる。

上がった先の客席には大きな窓が続き、天井から扇風機が下がっていた。窓の外を見ると、広場の向こうの白い建物が、窓枠の中に収まった。
ビールを飲む。
ブルネイで四日間飲まなかったあとの一杯だった。現地で残した言葉は、「五臓六腑に染み渡る」。大げさな言葉を探したつもりはなく、そのときは本当にそう感じた。
窓際でグラスを持ち上げ、写真を撮った。金色のビールと白い泡、その向こうに広場が写った。

皿には串に刺した料理が並び、小さな器に薬味やソースが添えられていた。食べながら、ときどき窓の外を見る。

建物の前まで行って見上げていたときと、席に座って眺めるときとでは、目に入るものが少し違う。広場を横切る人が見える。その先にも人がいる。しばらく、席からその様子を眺めていた。
石像の前から、通りへ戻る
国立博物館の始まりは、1778年にバタヴィアで設立された芸術・学術の研究団体にさかのぼる。収集された品々が増え、いまの場所に建てられた博物館は1868年に一般公開された。植民地時代の学術活動に始まった施設が、独立後にはインドネシアの国立博物館として、この土地の文化や歴史を伝えている。
その展示室で、石像の列に沿って歩いた。
顔や腕、身につけた装飾を見る。一体の前で足を止めてから、隣へ移る。外で見てきた街並みより、さらに前の時間へ目を向けることになる。

旧市街を歩いていると、どうしても植民地時代の建物が目に入る。けれど、それだけでこの国の過去を考えることはできない。ここに並ぶ像を造り、祈り、受け継いできた人たちがいた。
展示の中には、日本による占領期について記したものもあった。その前でも立ち止まった。
オランダの話を聞きながら街へ入り、今度は日本のことを読む。旅先の歴史を眺めているうちに、自分の国の名前に出会う。
建物の前には、小さな象の像が立っていた。1871年に訪れたシャムのチュラロンコン王から贈られたもので、この像から「象の博物館」とも呼ばれている。石像を見て歩いたあとで、今度は入口の象を見上げた。
見終えて外に出ると、また車の走る通りがあった。博物館の前には工事の囲いが続き、その向こうに街が伸びていた。

塔の足元から、大聖堂まで
翌朝も街を歩いた。
道路には車とバイクが行き交い、青い三輪の車も走っていた。歩道の脇には緑が植えられ、その先に大きな建物が見える。
独立記念塔のそばまで来ると、足元の空間が広かった。塔の先端を見ようとして、顔を上げる。空には雲が厚く重なっていた。

モナスと呼ばれるこの塔は、独立のための闘争を記念して建てられた。スカルノ大統領のもとで1961年に着工し、一般公開は1975年。高さ132メートルの頂には、独立への闘志を表す、金で覆われた炎が載っている。
遠くから見えていた金色は、その炎だった。塔の上まで目でたどってから、もう一度、広い足元を見る。独立を記念する建造物を、これほど大きく街の中に置いたのだ。
昨日歩いた旧市街とは、建物の大きさも、その間の空き方も違う。古い街を残しながら、独立した国として造ってきた場所もある。歩く場所が変わるたびに、考える時代も変わった。
駅の前を通り、さらに歩く。モスクの建物や、大聖堂の尖塔が見えてきた。

大聖堂の中には、木の長椅子が並んでいた。柱から続くアーチを目で追うと、視線が奥へ、上へと動く。窓からは明るさが入っていた。

外を歩いているときには建物の形が目につき、中に入ると椅子の並びや窓を見る。歴史を考えながらも、足を止めるのは、そういう目の前のものだった。
サバン通りの相席
夜のサバン通りでは、道路に沿って屋台が並んでいた。

黄色い看板、緑のひさし、赤い椅子。店の灯りが、調理台と、その前に座る人たちを照らしている。建物と屋台の間にも道が続き、人が通っていた。

食事の席で、地元の人と相席になった。
言葉を交わしたことは覚えている。何を話したのかは、もう思い出せない。旧市街へ向かうときの運転手の説明は残っているのに、ここでの会話は内容よりも、一緒に食事をしたことのほうが記憶に残った。
目の前の皿には、ソースのかかった串料理があった。串の持ち手が皿の端から伸びていた。

通りでは、まだ店が開いている。席の向こうにも食事をしている人がいて、その後ろを人が通る。
僕も皿へ目を戻し、もう一本、串を取った。
おすすめのレストラン
| 店名 | 特徴 |
|---|---|
| カフェ・バタヴィア | 大きな窓からファタヒラ広場を眺められる客席。額が並ぶ階段や木を使った室内にも、古い建物の趣が残る。 |
| サバン通りの屋台(店名未確認) | ひさしの下に調理台と食卓が並び、食事をする人と行き交う人の距離が近い。 |
今回の宿
| 宿名 | 泊数 | 総額 |
|---|---|---|
| メルキュール・ジャカルタ・サバン | 3泊 | 3,094,212 IDR (参考:約28,546円) |
旅行当時の宿泊総額。日本円は2026年1月末の参考レート(1月30日)(1 IDR=0.00922556円)による参考換算で、円での実決済額ではありません。
この旅の続き:ルアンパバーン旅行記|夕日を見送る、古都の二泊三日



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