長崎の酒屋:シーボルトからつながった旅
僕がヴュルツブルクを知ったのは長崎の酒屋だった。
前年にそこでドイツ人夫妻と出会い、どうして長崎へ来たのかを尋ねた。彼らは故郷の先達であるシーボルトゆかりの地を訪ねたかったのだという。僕が長崎に来た理由とも重なっていた。
二人の故郷を聞いてみるとヴュルツブルクだった。街を勧められたのはそのときだ。シーボルトの話をしていた酒屋で、今度は僕がドイツへ行くきっかけをもらった。
シーボルトは1796年にヴュルツブルクで生まれ、1823年に出島のオランダ商館医として長崎へ来た。長崎とこの街にはそんなつながりがある。僕が夫妻と知り合ったのも同じ人物に関心を持っていたからだった。
春にその故郷を訪ねた。残念ながら二人は街におらず再会はかなわなかった。それでも話に聞いた街を自分で歩いてみたかった。
ヴュルツブルク:マイン川沿いに重なる司教侯と学問の歴史
ヴュルツブルクはドイツ南部のバイエルン州にある。州の中でも北西部のウンターフランケン地方に位置し、マイン川が街を流れている。市の公表では2025年末の人口は132,700人。約13万3千人の街だ。
フランクフルトからは鉄道で訪ねやすい。現在のDBの案内では中央駅同士を結ぶ直通ICEで約1時間10分、地域列車のREで約1時間45分の例がある。列車や運行日によって変わるが、朝に出て街を歩く旅も組みやすい距離にある。
街の歴史をたどると8世紀に置かれた司教座へ行き着く。やがて司教は宗教の指導者であるだけでなく領地を治める君主となった。マリエンベルク要塞はその司教侯たちの居城で、18世紀には川の反対側にレジデンツが建てられた。丘の上の城と街中の宮殿は別々の名所というだけでなく、同じ権力の歴史でつながっている。
シーボルトの故郷という話から興味を持った街だが、学問との縁はそれだけではない。1895年にはレントゲンがこの街の研究室でX線を発見した。長崎で聞いたシーボルトの名前から、今度は病院で身近なレントゲンの名前へつながる。街の規模から想像するよりもずっと広いところへ仕事を残してきた場所なのだと思う。
一方でいま目にする街並みには戦災と復興の時間も重なっている。要塞やレジデンツは1945年に大きな被害を受け、その後に修復や再建が続いた。古い姿をした建物を見るとき、そこに長く残ったものと取り戻したものの両方がある。
僕にとっては長崎の酒屋で知り合った二人の故郷だ。そこへ司教侯の歴史や学問の話が重なると、橋から見える城や街の塔もただのきれいな景色ではなくなってくる。二人に勧められた街を歩くことが、その背景を少しずつ知る旅にもなった。
人口は2025年末の市公表値、アクセスは2026年10月確認のDB案内に基づく。今回の旅行当時の人数や実際の乗車時間を示すものではない。
マルクト広場:赤い礼拝堂から路地へ
ヴュルツブルク中央駅から旧市街へ向かう。マルクト広場まで来ると赤と白の壁をしたマリエンカペレが見えてきた。尖塔の下に広場が開け、その脇には淡い色の建物が続いている。
広場から細い通りへ入る。建物の間に飾りが渡され、奥には教会の塔が見える。大きな建物を正面から眺めるのと路地越しに見るのとで街の表情が変わる。
大聖堂の塔を見ながら市庁舎の方へ歩き、マイン川へ出た。橋の向こうの丘には要塞がある。ここからは川を渡ってそちらへ向かう。



アルテ・マイン橋:川を渡って要塞の丘へ
アルテ・マイン橋には石の聖人像が並んでいる。像の向こうにマリエンベルク要塞が重なり、その下の斜面にはブドウ畑が広がる。川と橋と丘の位置関係が一度に見える場所だった。
橋を渡り、坂道を上って要塞へ向かった。木々の間を進んだ先に門があり、その奥には厚い石の壁が続いている。橋の上から遠くに見ていた建物へ少しずつ近づいていく。
見晴らしのよい場所まで来るとマイン川の向こうに街の屋根が広がった。さっき渡った橋が旧市街へまっすぐ延び、その先に塔がいくつも立っている。歩いていた通りを今度は上から眺める。
この要塞は中世から増改築されてきた。17世紀の戦争を経て大きな稜堡が加わり、1945年には大半が焼けた。再建が1990年まで続いたという。目の前の城壁は昔のまま一つの時代から残ったものではなく、建て足すことと壊れたものを戻すことが重なっている。
川へ下り、同じ橋を戻った。今度は旧市街へ向かって歩く。橋の上から見ていた街と丘から見下ろした街がつながった。






レジデンツ:大階段の天井画と庭園
橋から大聖堂前を通り、レジデンツへ向かった。広場の向こうに長い正面が現れる。丘の要塞を歩いた後で来ると、開けた場所に立つ宮殿の姿はずいぶん違って見える。
中へ入ると大階段の上に天井画が広がっていた。階段を上る人と比べると空間の大きさが分かる。彫刻のある手すりから見上げた先まで絵が続いている。
レジデンツは司教侯の宮殿として18世紀に建てられた。司教は教区の教会をまとめる聖職者だが、当時の神聖ローマ帝国には領地を治める君主の地位も兼ねた司教がいた。それが司教侯だ。信仰の世界を導く一方で領地の政治や財政も担っていた。
この宮殿の建設を始めたのはヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルン。1719年にヴュルツブルクの司教侯に選ばれ、翌年にレジデンツの建設へ着手した。建築に強い関心を持ったシェーンボルン家の一人で、計画をバルタザール・ノイマンに託した。本人は着工から4年で亡くなったが、事業は弟のフリードリヒ・カールら後の司教侯たちへ引き継がれた。
その規模を支えたのは領主としての収入だった。司教領には所有地からの収益や地代、さまざまな賦課金や関税を集める仕組みがあり、宮廷の会計を担う役所が管理していた。そこから君主と宮廷の暮らし、役人の給与、建物などの費用が支払われていた。宮殿の豪華さの背後には広い領地とそこから集まる富があった。
宮殿管理局によると建築費は総額で約150万グルデン。当時の日雇い労働者の週給が1グルデンという比較が添えられている。大きな数字だけではつかみにくいが、暮らしの尺度を横に置くとこの宮殿に注がれた金額の隔たりが見えてくる。
大階段の広さや金色の装飾を眺めるとき、その美しさと領地を治めた側の力は切り離せない。ここは暮らす場所であるとともに富と威信を示す場所でもあったのだと思う。僕には天井画の向こうに、この空間をつくれた人々の立場も見えてくる。
ノイマンが設計した大階段にはヴェネツィア出身のティエポロが1752〜53年に天井画を描いている。建築と絵画、彫刻を一つの空間に集めた姿にも宮殿を建てた側の大きな構想が表れている。
館内を進むと白い装飾の空間から金色の装飾が重なる部屋へと景色が変わった。この宮殿も1945年の火災で大きな被害を受けた。ただし大階段など主要な部屋のヴォールトは持ちこたえ、被害を受けた部屋は救出された調度品や壁の装飾などを使って復元された。いま歩ける室内にも残った部分と戻された部分がある。
見学の後はホーフガルテンへ出た。芝生と花壇の間を道が通り、階段の上からは庭越しに宮殿が見える。花壇にはチューリップが咲いていた。天井画を見上げていた時間の後に、庭から建物全体を眺める。
世界遺産に登録されているのは「ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場」。この宮殿と庭園、広場が一体の登録対象になっている。






ユリウスシュピタール:街歩きの後にワインと食事
レジデンツを出てユリウスシュピタールのワイン食堂へ向かった。外の光の中を歩いてきて、今度は木の内装の店内で席に着く。ここでワインを飲みながら食事をした。
ユリウスシュピタールは1576年に司教侯ユリウス・エヒターが設立した財団に由来する。困窮する人を支える病院の経営を支えるために畑やブドウ畑、森が寄進された。街に残る司教侯の歴史は宮殿だけでなく、いまワインを飲んでいるこの場所にもつながっていた。
料理もワインも美味しかった。焼き色の付いた料理に添えられたパン、黒い皿に盛られた料理、テーブルのグラス。橋と丘を歩いた後の食事を写真にも残した。
長崎で知り合った夫妻に今回は会えなかった。それでも二人に勧められた街で川を渡り、丘へ上り、宮殿を歩いて食事をした。次に会えたらヴュルツブルクを訪ねた話ができる。




旅の地図
地図を読み込んでいます。
番号は写真の撮影位置に基づく訪問地点。施設の入口や実際に歩いた経路を示すものではない。
おすすめのレストラン
| 店名 | 特徴 | お会計額 | 参考円 |
|---|---|---|---|
| ユリウスシュピタール | 木の内装の食堂でワインと食事を楽しめる。財団のブドウ畑と結びついたワイン食堂で、街歩きの後に料理とワインを味わった。 | €92.11 | 約15,060円 |
参考円は2024年3月28日の1ユーロ=163.45円で換算。
交通と予約
| 交通 | 利用内容 | 支払額 | 参考円 |
|---|---|---|---|
| RMV | 往復 | €6.30 | 約1,030円 |
参考円は2024年3月28日の1ユーロ=163.45円で換算。
フランクフルト中央駅からヴュルツブルク中央駅へはICEなどの直通列車で移動できる。所要時間と料金は乗る列車や日程で変わる。
関連記事
宮殿や美術館と食事を巡った別の旅はウィーン旅行記にもまとめている。
参考資料
- 長崎市:シーボルトの生涯と仕事
- バイエルン宮殿管理局:マリエンベルク要塞
- バイエルン宮殿管理局:レジデンツ
- UNESCO:ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場
- ユリウスシュピタール:ワインと財団の成り立ち
- ヴュルツブルク市:人口(2025年末)
- Deutsche Bahn:フランクフルト中央駅〜ヴュルツブルク中央駅
- ヴュルツブルク大学:1895年のX線発見
- ヴュルツブルク大学:司教座設置と街の歴史
- フランス銀行:2024年3月28日の為替参考値
- バイエルン宮殿管理局:レジデンツの建築史と建築費
- バイエルン宮殿管理局:建築主ヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルン
- バイエルン歴史事典:ヴュルツブルク司教領の行政と財政



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